あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

清少納言集の一首

背景を十分に理解してから鑑賞に臨む。清少納言集の一首を読み、この解釈学での基本に徹する味わい方をあらためて認識した。以下、コレクション日本歌人選『清少納言』より。 くら人下りて内わたりにて、文得ぬ人々に文取らすと聞きて、風のいたく吹く日、花…

新しい和歌の読解「蒲生野贈答歌」

かつて古文解釈において「何か引っかかるけれど、千年前のできごとを伝えるのだから少しぐらい意味のしっくりこない表現であってもこういうものなのだろう…」と感じる文章は多かった。違和感を抱きながらも古典ゆえに仕方がないのだと納得させ収束させてしま…

後撰集における「露」

定子の辞世歌を意識しながら、後撰集における「露」の歌を拾う。恋歌で知られる後撰集は九十四首。 定子の辞世歌の一首 煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ つねもなき夏の草葉にをく露を命とたのむ蝉のはかなさ 一九三 今夜かくなかむる…

古今集における「露」

定子の辞世歌を意識しながら、古今集における「露」の歌を拾う。古今集では長歌一首を含め計四十七首。 定子の辞世歌の一首 煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ あさ緑いとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か 二七 はちす葉のにごりに…

賀茂保憲女集のひと

『賀茂保憲女集』—。一首目から王朝和歌の諷詠とは異なるというのが第一印象。形式は和歌なのだけれど、感覚が何か現代に通じるような系譜に沿っている。十世紀後半に生きた歌人と千年後の今をつなぐ属性は何なのか。 解説頁を捲り、解を得る。稀代の家集は…

能因本と三巻本を比較する

『枕草子[能因本]』が届いた。ピカピカの本を目の前にしてワクワクしているが、実は何から始めていいのかわからずにもいる。とりあえず冒頭だけ比較してみたい。前が能因本、後が三巻本。 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だ…

十題百首

十題百首には、良経、慈円、定家、寂蓮が参加。二十八首残る寂蓮以外、三人は百首を各家集に収める。十題は、天象、地儀、居処、草部、木部、鳥部、獣部、虫部、神祇、釈教で各十首。 良経歌と定家歌の比較を楽しんだ。 良経歌に関しては、一一九〇年に入内…

雪月花

藤原定家「花月百首」に見えた雪月花を詠んだと思われる二首に関して。『万葉集 (四)』より大友家持の歌と『和漢朗詠集』より白居易の詩を引く。 大友家持 宴席詠雪月梅花歌一首 雪の上に照れる月夜に梅の花折りて贈らむ愛しき児もがも 雪の上に月が輝いてい…

季が二つ、ときには三つ

個人的に複数の季を含む和歌に興味をそそられる。一首のうちに、なにか、万華鏡のような異なる色の時空が動き始める感じ。変化に、それぞれの温度、匂い、濃淡が招喚され、鮮やかに浮かんでは消える気色に魅了されるといえばいいのか。瞬間を切り取る俳諧発…

空と海と水平線

空と海と水平線…は好きな歌材で、季を問わず詠みたくなる。子どもの頃、よく青系の画材を取り出して、ただひたすら線を重ね引きし、空と海と水平線を描こうとした。視覚で濃淡を確かめる時間の心地よさ。やはりここにも心地よさが存在していた。 そんなこと…

微視と巨視

清少納言の『枕草子』は絵画的描写を用い、後宮の様子を活写している。なぜ、清女が絵画的視座を持ちえたのか。ひとつの試みとして、三代集における色彩、天象の扱いの他に、対象への距離感を調べる作業も加えたいと感じた。それは微視と巨視。『枕草子』に…

歌材と流れ

『花のもの言う』(280頁)に王朝和歌時代の歌材とその扱いについて興味深い指摘があった。隠すことが美徳のひとつでもあった当時、歌には「身体の部分、特に顔を構成する各器官をあからさまに歌わない」習慣があったと聞いても別に驚きはしない。隠すべきこ…

気になる花に菫がある。芭蕉と漱石の句で好きになり、赤人の歌でさらに、三十一文字にて詠まれる菫にも惹かれるようになった。 山路来て何やらゆかし菫草(松尾芭蕉) 菫ほどな小さき人に生まれたし(夏目漱石) 春の野にすみれ摘みにと来しわれそ野を懐かし…

橘は古典において多く貴く扱われている。 漢詩人である後中書王具平新王は次のように詠じた。 枝には金鈴を繋(か)けたり春の雨の後 花は紫麝(しじゃ)を薫ず凱風の程(和漢朗詠集・夏、橘花) 清少納言は、 花のなかよりこがねの玉かと見えて、いみじうあ…

良経の「枯野」詠草 

兄良通の急死から九条家の後嗣となり、妹任子の入内後、良経は歌人として才能を開花させていく。 最初の歌会主催は文治五年(一一八九年)、二十歳での雪十首歌会。これ以降、九条家を舞台に続々と歌会、歌合が開催され、新古今前夜的な時代に入ってゆく。 …

花月百首

藤原定家の拾遺愚草で花月百首*1を確かめた。歌人西行の追悼とは記されていないが、注釈欄には「建久元年(一一九〇年)九月十三日夜、九条良経の家で披講された」とある。作者は良経・慈円・定家・有家・寂蓮・丹後ら。同二十二日、百首から各自十首の撰歌…

What(何を)&How(如何に)

昨年、結社の歌会に何度か参加させていただき最初に気づいたことは、詠歌における「What(何を)」 と「How(如何に)」の差異だった。 自分の場合、歌はいつも「How(如何に詠むか)」に焦点を定めて詠んでいる。というより、意図せずとも自然とそうなって…

両極の一方

対照的な存在が好きで、歌でもよく詠んでいる。両極を眺め、相違点を味わう過程が心地よい。歌における自らの探究を考えるときも同様である。一方は古歌、もう一方は現代に向かった歌であり、両極を見る。 美の観点から、古歌における追及は焦点が定まったと…

後拾遺集のころ

『後拾遺和歌集 (岩波文庫)』発売予告を目にし、さっそく予約を入れた。この時代の芸術的背景に注目しているからである。表紙より。 もの思へば沢のほたるもわが身よりあくがれ出づるたまかとぞ見る―—和泉式部・赤染衛門・紫式部を始めとする女性歌人の華麗…

日本的象徴を追う

所属結社の精神を振り返りながら、自らの方向性を確かめてみる。 潮音の創設者である太田水穂は古典和歌に親しんだ後、芭蕉俳諧の象徴から学び、蕉風を短歌にうつそうとして三十一音における「日本的象徴」を提唱した。 その芭蕉は、唐詩と古典藝術の影響を…

旅の友

『大手拓次詩集』…日々、音読の友。好きな詩を毎晩、何度も読んでしまう。「色」を駆使した色彩イメージが好き。「香り」も、想像を掻き立てられる。そこには、やさしくかなしい孤独がある。不可能なことだが、お会いしてみたい方だ。どのような話し方をされ…

真善美ふたたび

千首詠におけるさまざまな試みは、貴重な学びである。そのひとつに歌における虚構性がある。一例として入社したころの体験を記す。 象徴を提唱する結社であるからだろう。印象深い語彙の選択は三十一音の短文においてある意味、必須となる。指導者もその要所…

連作

連作とは、「一人の作者が特定の題材に基づいて複数の作品を作り、全体としてもある程度まとまった作品とすること」(ウィキ)。 自分の短歌連作に対する考え方が結社内のそれとまったく異なることもあり、母から説教されそうになったことがある。わたしの 2…

雅俗

「俗」を「無限の可能性を秘めるもの」と定義して、ここでは雅俗を「伝統に対して新しくなおかつ雅を有するもの」としたい。そう実感している対象は、英国人の現代作曲家 John Rutter の教会音楽である。モーツアルトなども美しい教会音楽を創作しているが、…

枕詞

高校古文の参考書『古文研究法』に、枕詞の解説の後、次のようにあった。 …どうせ意味に関係ないのだから、わざわざ使わなくてもよいような感じがするかもしれないけれど、枕詞をうまく使うと、理屈ぬきに美しい「しらべ」が生まれる。 「理屈ぬきの美しいし…

象徴詩歌のルーツを探る 枕草子の存在

以下、寄稿としてまとめた。 「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり(「源氏物語」を読まない歌人は、とても残念に思われる)」。藤原定家の父で鎌倉初期に中世和歌の礎を築いた藤原俊成は一一九三年、六百番歌合(冬上十三番「枯野」判詞)にて、日本の精神…

歌物語

物語に歌が挿入してあるだけで、ストーリーに濃淡が表れ、ぐっと深さが生まれると感じる。『西行花伝』には折々に三十一字が置かれており、歌の持つ力がたたえられている。 心酔したのは十三帖。吉野から綴った桜についての西行の書簡の箇所である。美しい文…

心と詞

藤原定家らが行った自然の持つ複雑微妙な実相をとらえる詠について振り返る。 「そのような内容は、いわゆる『心』として独自に存在できるものでなく、かならず『詞』に即して存在するわけだから、二元的に考えることができない。『詞』を離れた『心』は無い…

上の句

ときどき、上の句が俳句として成り立っているのではないかと思われる歌を詠んでいる。575 ですでに完結しているので、77 を創造しにくい。不要っぽい下の句が付くので、歌として駄作に入るのだろうな、と。これまでの作品から並べ、鑑賞してみたい。いつか星…

utakataなどその3

うたかたにて 247 首。それ以前のうたよみん 165 首を加えるとウェブ上の約3か月で計 412 首。両サイト間にて推敲し投稿しなおした歌を差し引いて約 400 首。千首詠まであと 600 首。古の歌人たちはどのような気持ちで多詠をしていたのだろう。「呟けば短歌…

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