あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

真善美ふたたび

 千首詠におけるさまざまな試みは、貴重な学びである。そのひとつに歌における虚構性がある。一例として入社したころの体験を記す。

 象徴を提唱する結社であるからだろう。印象深い語彙の選択は三十一音の短文においてある意味、必須となる。指導者もその要所を心得ていた。たとえば、「器」という言葉に対し「古伊万里」の使用を薦め、その理由は「そのほうがぐっと歌の雰囲気が深まる」。ということで、家にありもしない古伊万里の器が歌に登場した。あるときは、微妙な人間関係を恋愛関係の機微に変え、「ここは恋に。そうすることで読者を夢中にさせる」。ということで、思わせぶりな相聞歌が誕生した。…確かに歌としては味わい深い印象を与え、面白くなったりするのだが、一瞬にして自分の歌ではなくなり他人の歌となる。注目されるために脚色して格上の頁に掲載され…、結局そういうことか、と。嘘でも、秀歌として残ればいいのだろうか。

 振り返ったときに、嘘を交えた歌は気重である。古今時代は戯れとして格好の娯楽だったのだろうが、題詠でなければ、自分の場合、不快だ。もっと真善美の追究に徹しようと今回、いくつかの虚構性を帯びた自歌を顧みて感じた。変化のない日常を送っている時が危険なのだ。「こうだったら、歌として面白いのに…」などと余計なことを思い始めて、虚構がふと顔を出す。ここで旅の意義を深く感ずる。だから皆、旅に出るのだと。あらためて、この気づきは収穫だった。

 空想は好きなのだ。でも、嘘が嫌い。自己を客体化する千首詠の旅、つづく。

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