あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

清少納言集の一首

 背景を十分に理解してから鑑賞に臨む。清少納言集の一首を読み、この解釈学での基本に徹する味わい方をあらためて認識した。以下、コレクション日本歌人選『清少納言』より。

 くら人下りて内わたりにて、文得ぬ人々に文取らすと聞きて、風のいたく吹く日、花もなき枝に書きて

 

(蔵人を辞めてから、御所あたりで、普段、そんなものをもらいつけない宮仕え女房らに恋文をやっていると聞いて、風がひどく吹く日に、花もない枝に付けて書いて、読んだ歌)

 

言の葉はつゆ掛くべくもなかりしを風に枝折(しを)ると花を聞くかな*1

 

(あだっぽい言葉をかわすなど、まったく思いも寄りませんでしたのに、今あなたが、女たちを残らずなびかせていると、まあ、花やかな噂を耳にしましたよ。)

  同書の解説は…

 「葉」「つゆ」「風」から「花」まで、縁のある言葉(縁語)や、同音異義の語を利用した掛詞で綴る一首。「まったく」といういう意の「つゆ」という語には、草葉の「露」が掛けられている。

 こうした機知的な、言葉遊びの歌は苦もなく出てくる。「花」を、見るのでなく、「聞く」ものとして詠む表現の意外性も、清少納言らしい。 

 語彙の選択が自分好み。静かな自然を詠う縁語、結句の「花を聞く」が妙なる雅に包まれ心惹かれる一首だ。解説にも記されているように「言葉遊び」的に生まれた一首は、刹那的に生まれた歌だろうから、より清少納言らしさを表出させていると断言していいだろう。彼女をさらに知りたい気持ちが昂じてくる。

 『清唱千首』(春)も178番に取り上げ、やはり縁語と結句について「理知のきらめきが見える」と評価している。ただ、ここで気になるのは次の部分だ。 

…清少納言も紫式部同様「歌詠みのほどよりも物書く筆は殊勝」と言はれてもやむを得ない歌人だが、秀作に乏しい歌集の中で、この一首はともかく出色の調べだ。

  「勝者の文学」と呼ばれる源氏物語に対して「敗者の文学」と呼ばれる枕草子は、主家の没落とともに価値が落ち、写本がことごとく散逸、紛失、あるいは改ざんされてしまった。そのため現存するものの内容は信ぴょう性が低いとして、研究対象から遠ざけられている印象さえある。清少納言集も然り。和歌文学大系『賀茂保憲女集・赤染衛門集・清少納言集・紫式部集・藤三位集』には、わずか四十二首しか収録されていない。この四十二首から、清少納言の歌人としての魅力を見極めてしまっていいものだろうか。

 塚本邦雄の一言に触発され、清少納言と彼女の歌への興味がふたたび焔立ってきた。

*1:『清唱千首』では「言の葉は露もるべくもなかりしを風に散りかふ花を聞くかな」とある。

新しい和歌の読解「蒲生野贈答歌」

 かつて古文解釈において「何か引っかかるけれど、千年前のできごとを伝えるのだから少しぐらい意味のしっくりこない表現であってもこういうものなのだろう…」と感じる文章は多かった。違和感を抱きながらも古典ゆえに仕方がないのだと納得させ収束させてしまう感覚がどこかにあった。このような違和感を抱かせる解釈に異議を唱え新しい読解を試みているのが、『枕草子』能因本研究で名をはせる圷美奈子氏である。和歌を基軸に古典解釈を刷新されており、歌を詠むものとしてその研究内容に心惹かれる。

 氏の「《見立て》の構造―和歌読解の新しい試みとして―」と題する論文から、和歌読解を紹介したい。

 蒲生野贈答歌

 天皇の、蒲生野に遊猟したまひし時に、額田王の作れる歌

あかねさすむらさき野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る(一・二〇)

 皇太子の答へませる歌

紫草のにほへる妹を憎くあらば人妻ゆゑにわれ恋めやも(一・二一)

  額田王と大海人皇子による贈答歌は、天智天皇(兄)、大海人皇子(弟)と額田王の三角関係が背景にある。大海人皇子が、兄である天智天皇の后になった昔の妻、額田王に手を振るなんて。初めて読んだときは、「あかねさすむらさき…」のイメージから広がる恋歌に魅了されたものだ。しかし、のちのち解説によると、宴の座興として応答が交わされた和歌一対だったと知り、ときめきは一瞬で色褪せてしまった。そのような笑いを醸すような場でのやりとりだったのだろうか。そんな疑問もかすかに抱きつつ。

 そして圷論文と出会う。やはり、ここには大きな読み落としがあった。「袖振る」「端午節」「皇太子」をキーワードとして圷氏が読み解くと…。

 天皇遊 獦蒲生野 時額田王作歌

茜草指 武良前野逝 標野行 野守者不見哉 君之袖布

 皇太子答御歌 明日香宮御宇天皇 謚曰天武天皇 

紫草能 尓保敞類妹者 人嬬故尓 吾戀目八方

 紀曰 天皇七年丁卯夏五月五日縦 獦於蒲生野 干時大皇弟諸王内臣及群臣皆悉従焉

  時は天智天皇即位年の五月五日、端午の節句。「《世継ぎのための賜宴》と定義される端午節は、…古代、皇太子が世継ぎたる人の資質と威風を示して一世一代の舞を奉献することが行われた」という。「袖振る」とは単に手を振ったり合図をしたりするのではなく、「袖を振って舞う」舞いのこと。つまり、次期天皇として資質の認められた大海人皇子が、兄の天智天皇並びにその妻となった額田王を讃える気持ちを込めて舞った背景がここにはあるという。

 そのしぐさ「袖振る」を額田王が愛情表現と見立てて歌を詠み、恋心をあおるような返歌を求め、大海人皇子は紫草になぞり兄天智天皇の妻となり生きる額田王を讃えて返した、というのだ。立場は弟、皇太子として、天皇の「人妻」なのだから恋せずにいられようか、恋しているよ、と天智の御代を讃える返歌とした。

 この贈答歌でこれまで読み取られてこなかった二点は以下と氏はまとめた。

1.表現すべきこと=節会の主人公である大海人皇子による、天智朝の賛美。

2.表現手法=

[額田王作歌]奉献の舞のしぐさを、もとの妻である自分(額田王)への愛情表現として見立てる。

[大海人皇子返歌]今は兄帝近侍となった額田王を、その地位を得たゆえに讃える。

 キーワードの理解、読み解きから和歌を見直すと、筋の通った意味がすっきりと現れる。鮮やかな読解と解釈にとにかく見とれてしまった。

 今、確かに古典解釈について見直しの時期が来ているのだろうと確信した一例だった。

紫式部日記の政治性

 『紫式部日記』関連のレビューを読むと、最近の研究傾向が見えてくる。この日記はプロデューサー的存在だった藤原道長の影響が多大という仮説を最新の論考で目にした。清少納言をこき下ろした部分も、宿敵一族を貶める目的の一つだった、と。やはり彰子後宮の女房の一人、赤染衛門が執筆したといわれる『栄華物語』は藤原一族賞賛の物語。要するに両書とも道長の指令通りの執筆だったわけだ。

 となると、この時代の政治性を思わずにはいられない。たまたま千人万首にて彰子、道長の勅撰集入り歌数を目にしていたところだった。学問文芸に乏しいと言われていた彰子二十八首、その父道長四十三首入選。一方で、和漢の才能を後宮にていかんなく発揮した定子八首、漢籍に造詣の深かった一条院八首入選。彰子、道長は長命であり一概には断定できないけれど、それでも数字を比して明らかに政治的な「圧」のようなものが存在しただろうと憶測せずにはいられない。

 スピーチライターのいる現在の首長の様子を見ていると、歌が苦手だったトップにも当時、誰か側近が代わりに詠んでいたのでしょ? ここにも勝者の文学、敗者の文学あり。史実って何なの、と思わずにはいられない。

 でもここから、あまりにも賞賛されすぎている『源氏物語』の虚構が崩れ、『枕草子』の真実が浮き彫りになり始めるのではないかとの予感もする。虚構はいずれ暴かれる。

百首詠

 藤原良経、藤原定家の歌集はいずれも百首詠で始まっている。この「百」には意味があるのだろうか。抱いていた疑問に的確に答えてくださる論文に出会うとはまさか思ってもいなかったが、出会えたのである。渡邉裕美子氏の「〈毎月百首を詠む〉ということ―『毎月抄』の時代―」である。

 「百」という数字は、「身体にも自然にも由来しない観念的に定められた数」と考えられるという。十首詠、五十首詠などこの種類の歌を定数歌と呼び、歌仙やいろは歌にちなみ三十六首詠、四十七首詠もある。だが、驚くべきことに一連の定数歌の中でも最も古いものは百首詠というのだから、やはり「百」には特別感がある。記録される最古は天徳末年(九六一年)ごろ成立の曾禰好忠の百首歌で、好忠は百首詠の創始者とされているそうだ。漢詩の連作形式や「李嶠百詠」などが発想源ではないかと推測されており、初めから百首詠という形で享受された。

 好忠の百首詠はかなりの反響で、これに応和して続々百首詠が誕生していった。題詠が確立された中世の百首詠と区別してこれを「初期百首」と呼ぶ。想像するに、これらはいわゆる歌群であったとは思うが、続けて詠んでみるとそこから壮大な情景が浮かんでくるわけで、勅撰集の配列もあり、歌人はさまざまな心象、それを生み出す修辞、流れ、均衡をあれやこれやと思索したことだろう。

 ここを起点として百首詠がさかんになり次代の題詠百首へと発展してゆき、中世期の良経や定家の百首がお目見えした。歌道確立の視座からこれは格好の稽古であったに違いない。

 定家の歌論として知られる『毎月抄』だが、もともとはこの呼称を持たず、毎月定家に百首詠草を添削してもらい、その返報に記されていた文章を指すとのこと。この「毎月百首を詠む」営みについて、近年、浅田徹氏が「単純に練習量を豊富にすることで技術の向上を図っているだけではなく、神仏に対する祈誓と結びついている」と指摘された。宗教性の薄い四季歌も多くある中で、毎日読む行為を持続させた根底には宗教心も関与していた可能性があるという。そうでなければ続けられない人間の弱点は想像に難くない。

 若い良経、定家らにとり百首詠はすでに当然の嗜みとして享受されていた。現代の詠み方とは当然、正反対のベクトル。大量アウトプットから見えてくる風景は必ずあるわけで、この経験に魅了される。

春日遅遅―『枕草子』「三月ばかり、物忌しにとて」の段の贈答歌―

 繊細な感性で本文を読み解き、鮮やかに謎を解明する。圷美奈子氏の論文「春日遅遅—『枕草子』「三月ばかり、物忌しにとて」の段の贈答歌」を読了し、鋭い洞察に圧倒された。氏の強みは和歌の読解、解釈力である。従来、研究の主眼が三巻本に置かれている中で能因本の読み込みに取り組み、王朝文学理解の新天地を開拓されている。

 この段では三首の歌が登場し、うち二首は贈答歌。清少納言が物忌みで退出していた際の定子との歌のやりとりを紹介するのだが、この贈答の解釈が状況把握の鍵となるわけで能因本のみに記される部分が的確な解釈へと導いてゆく。

 前半は清少納言が物忌をする場所を訪ね、風情の感じられない柳の木を詠む。

さかしらに柳のまゆのひろごりて春のおもてを伏さる宿かな

おせっかいにも柳の葉のふちが広がってしまい春の見た目を惜しい感じにしている宿であるよ

 後半は次の物忌の場所で定子から早く戻ってきて欲しいと歌をもらい、その返歌を詠むが、後宮に戻ると定子からその返歌が気に入らなかったと文句を言われてしまう。以下、原文。緑字は三巻本には無い部分を示す。

 そのころ、また、同じ物忌しに、さやうの所に出でたるに、二日といふ昼つかた、いとどつれづれまさりて、ただいまもまゐりぬべき心ちするほどにしもあれば、いとうれしくて見る。浅緑の紙に、宰相の君いとをかしく書きたまへり。

(定子)いかにして過ぎにし方を過ごしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな

となむ。わたくしには、「今日しも千年の心地するを、暁にだにとく」とあり。この君ののたはむだにをかしかるべきを、まして仰せの言のさまには、おろかならぬ心ちすれど、啓せむ事はおぼえぬこそ

(清少納言)雲の上も暮らしかねつる春の日を所がらともながめけるかな

わたくしには、「今宵のほども、少将にやなりはべらむずらむ」とて、暁にまゐりたれば、「昨日の返し、『暮らしかねける』こそ。いとにくし。いみじうそしりき」と仰せらるる、いとわびしう、まことにさる事も。

  この贈答歌だが、二首併せてじっくり読み取らないと正しく解釈できない。氏は過去どの碩学の解釈も清少納言の返しにある「春の日」の読解ができていなかったと指摘する。

 従来の解釈は「過ぎにし方」を「清少納言出仕前の月日」のこととして捉えているが、圷訳では「春日遅遅」の思いであり「暮らしわづらふ」精神状態を「春の日というものが、こんなにも切なく過ごし難いものであったとは――!」と捉える。「私はいったいどのようにして過ぎた日々を暮らしてきたのだろうか」というのは、今この時の生き難さ、苦しさをもって述べたものであり、「過ぎにし方」というのは、暮らし難いこの春の日を知らずに過ごした日々のこと。清少納言の不在によって”気づく”ことになった思いで、春の日の《特別な思い》であるという。

 ここで氏は、古今集、万葉集、詩経、白氏文集から「春日遅遅」に関連する歌を挙げ春日の思いの例として提示する。白氏文集からは、「春の日の長き思ひ」「秋の夜長」をより一層長く思わせるものは恋人の不在であるとして次の詩を紹介した。対が美しくて好き。

九月西風興 月冷霜華凝 思君秋長夜 一夜魂九升

二月東風来 草析花心開 思君春日遅 一日腸九廻

九月西風興り、月冷やかにして霜華凝る。君を思うて秋夜長し、一夜魂九升す。

二月東風来り、九析けて花心開く。君を思うて春日遅し、一日腸九廻す。  

 論考の後半では能因本のみ持つ記述が読解、解釈の肝となり過去の読み解き方を喝破できた要因となった。定子が返歌に対し不満を述べた理由は、清少納言が歌で「暮らしかねつる」とすでに済んだこととして完了形で詠んだ箇所を定子が「暮らしかねける」と過去形にし、そこに「こそ」と強調されたことで一層明らかになったという。

贈歌によって訴えた「昨日今日」の生き難さは、清少納言のからの返事を待つ定子にとって、決して「過去」のできごとではないのだ。

 定子は今も春日の生き難さを進行形で感じているのに、清少納言は暢気にも「定子様が後宮でも暮らし難く過ごされた春の日を、私は自分のいる場所のせいだと眺めていました」と過去の出来事として返してしまったことが定子御立腹の理由となる。能因本のみに記される「啓せむ事はおぼえぬこそ(うまい歌で申し上げることができないことが残念)」と清少納言の本心が素直に発露されていることから、返歌には冴え、切れがなく集中できていなかったことが窺える。

 ずっと謎とされていた「少将」の意味だが、他段と関連性を持つという。以下、注釈(8)。

「なほ世にめでたきもの 臨時の夏りのおまへばかりの事」(一四五)の段に、「ゆゆしうせちに物思ひ入れ」た結果、ついに(願いかなって)その所に居つく幽霊となった「少将」(能因本「良少将」。三巻本、前田家本ではそれぞれ「頭中将」「在五中将」)の噂が見える。従来、思い叶わず絶命する「深草少将」の話柄などが引き合いにされているが、作品の中で解すとすれば、清少納言の私信の言と関わるのは、ここ、一四五段の「少将」であろう。 

 つまり、この箇所も能因本にのみ「良少将」の呼称が記されているがゆえ、謎解明が可能になった。また、前半で詠んだ柳の歌について、物忌先の家に生えている「にくげなる」柳の葉にまず目がゆくことは、対極にある「なまめかし」き「柳眉」の世界(定子後宮)を思うがゆえとする。これは「少将」も「柳眉」も、『枕草子』は一段ごと完結するのではなく他段と関連しており全体が一つの「交響詩」として存在する証明となる。『枕草子』に対する印象を氏が「交響詩」と表現していることに共感した。自分もずっと「交響詩」が相応しいと感じていたので。

 過去の学識に疑問を唱え、鋭く正論を展開する手法に心底から魅了された。先入観を取り除き曇りのない視点で臨まなければ見えない境地だと思う。故小西甚一氏が解釈学こそ今、復活されなければならないと提言していたが、圷氏こそ、その解釈学の王道を行く研究者だろう。

 王道を行くにはまずそれに相応しい感性を持ち合わせていなければならないが、氏の感度は驚異的だ。同じ対象を目にしても見える人と見えない人がいる中で氏は宝石のような純度の高い感性を有している。圷解釈学の手法は和歌の読み解きが基軸であり、歌を愛する者としてこの点にとても惹きつけられる。

 論文本文では三巻本での表記を傍線で示し、両本の異同を見やすくする工夫も行っている。外観から読みやすく理解しやすい論考という点でも時代に沿っているだろう。

 能因本には清少納言の本音と思われる記述があちこちに見える。後世、誰かの手が加えられたとされる能因本だが、その手こそ清少納言の最終稿だったことの証拠なのだろう。三巻本と比べ雅やかな筆致なので、ここでまた清少納言の人となりを垣間見ることができる。

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