あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

連作

 連作とは、「一人の作者が特定の題材に基づいて複数の作品を作り、全体としてもある程度まとまった作品とすること」(ウィキ)。

 自分の短歌連作に対する考え方が結社内のそれとまったく異なることもあり、母から説教されそうになったことがある。わたしの 20 首詠を読んだ後、「連作というのはね…」と始まったので、慌てて自分の視点で反論した。

 自分の連作目的は、世間一般の物語り的連作とは別のところにあった。そのイメージは、「言葉により柔らかい濃淡を絶えず映し出す、一反の白妙を織りあげる」といったもの…つまり、ストーリー性はないのである。ただ、時間が漂うだけ。連歌を念頭に置いていた。

 以下、『宗祇』より。

  • 言語の流れ自身の美しさこそ、連歌の本性
  • 全体としてまとまった思想内容を持たないから、題のつけようがない。…題を与えることのできない性質の芸術である点に、いっそう重要な意義を認めたい。
  • イメージの交響楽
  • 偶然性は、いわば連歌表現の中核
  • どうなってゆくかわからない偶然性に媒介された各句のダイナミックな総和が連歌における全体
  • 連歌は、もともと特性のない表現を良しとする

 ストーリー性が無く、情景が次々と移り変わってゆく。このような連作を誰が認めてくれるであろう。

 独吟の連歌を巻きたかった(すでに過去形)。「水無瀬三吟」の句材を基にルールを作り詠みたかった。のだが…、当然、全くの技量不足。そもそも連歌でさえよくわかっていないところに、何が巻けるというのだろう。何度か試みたが、白旗。もっと他で修練を積む必要性を痛感した。

 以来、連作に関しては、お手上げの状態である。個人のストーリーなど語れない。でも、周りは「人間」や「社会」を語れというのである。

 わたしは一人称文学としての短歌が苦手だ。私性が匂うだけで、ページを閉じる。生理的に受け付けない。心と体がそのように反応する。理由を探すとしたら、たぶん、歌における雅や普遍性が見えにくくなるからではないか、と察する。

 時間は限られているのだから、心の赴くところを歌うことが自らの在り方だと信じている、けれど…。連作に関しては、より和歌的なものを求めて、今しばらくの試行錯誤が続くと思われる。

©akehonomurasaki