あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

百首詠

 藤原良経、藤原定家の歌集はいずれも百首詠で始まっている。この「百」には意味があるのだろうか。抱いていた疑問に的確に答えてくださる論文に出会うとはまさか思ってもいなかったが、出会えたのである。渡邉裕美子氏の「〈毎月百首を詠む〉ということ―『毎月抄』の時代―」である。

 「百」という数字は、「身体にも自然にも由来しない観念的に定められた数」と考えられるという。十首詠、五十首詠などこの種類の歌を定数歌と呼び、歌仙やいろは歌にちなみ三十六首詠、四十七首詠もある。だが、驚くべきことに一連の定数歌の中でも最も古いものは百首詠というのだから、やはり「百」には特別感がある。記録される最古は天徳末年(九六一年)ごろ成立の曾禰好忠の百首歌で、好忠は百首詠の創始者とされているそうだ。漢詩の連作形式や「李嶠百詠」などが発想源ではないかと推測されており、初めから百首詠という形で享受された。

 好忠の百首詠はかなりの反響で、これに応和して続々百首詠が誕生していった。題詠が確立された中世の百首詠と区別してこれを「初期百首」と呼ぶ。想像するに、これらはいわゆる歌群であったとは思うが、続けて詠んでみるとそこから壮大な情景が浮かんでくるわけで、勅撰集の配列もあり、歌人はさまざまな心象、それを生み出す修辞、流れ、均衡をあれやこれやと思索したことだろう。

 ここを起点として百首詠がさかんになり次代の題詠百首へと発展してゆき、中世期の良経や定家の百首がお目見えした。歌道確立の視座からこれは格好の稽古であったに違いない。

 定家の歌論として知られる『毎月抄』だが、もともとはこの呼称を持たず、毎月定家に百首詠草を添削してもらい、その返報に記されていた文章を指すとのこと。この「毎月百首を詠む」営みについて、近年、浅田徹氏が「単純に練習量を豊富にすることで技術の向上を図っているだけではなく、神仏に対する祈誓と結びついている」と指摘された。宗教性の薄い四季歌も多くある中で、毎日読む行為を持続させた根底には宗教心も関与していた可能性があるという。そうでなければ続けられない人間の弱点は想像に難くない。

 若い良経、定家らにとり百首詠はすでに当然の嗜みとして享受されていた。現代の詠み方とは当然、正反対のベクトル。大量アウトプットから見えてくる風景は必ずあるわけで、この経験に魅了される。

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