あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

春日遅遅―『枕草子』「三月ばかり、物忌しにとて」の段の贈答歌―

 繊細な感性で本文を読み解き、鮮やかに謎を解明する。圷美奈子氏の論文「春日遅遅—『枕草子』「三月ばかり、物忌しにとて」の段の贈答歌」を読了し、鋭い洞察に圧倒された。氏の強みは和歌の読解、解釈力である。従来、研究の主眼が三巻本に置かれている中で能因本の読み込みに取り組み、王朝文学理解の新天地を開拓されている。

 この段では三首の歌が登場し、うち二首は贈答歌。清少納言が物忌みで退出していた際の定子との歌のやりとりを紹介するのだが、この贈答の解釈が状況把握の鍵となるわけで能因本のみに記される部分が的確な解釈へと導いてゆく。

 前半は清少納言が物忌をする場所を訪ね、風情の感じられない柳の木を詠む。

さかしらに柳のまゆのひろごりて春のおもてを伏さる宿かな

おせっかいにも柳の葉のふちが広がってしまい春の見た目を惜しい感じにしている宿であるよ

 後半は次の物忌の場所で定子から早く戻ってきて欲しいと歌をもらい、その返歌を詠むが、後宮に戻ると定子からその返歌が気に入らなかったと文句を言われてしまう。以下、原文。緑字は三巻本には無い部分を示す。

 そのころ、また、同じ物忌しに、さやうの所に出でたるに、二日といふ昼つかた、いとどつれづれまさりて、ただいまもまゐりぬべき心ちするほどにしもあれば、いとうれしくて見る。浅緑の紙に、宰相の君いとをかしく書きたまへり。

(定子)いかにして過ぎにし方を過ごしけむ暮らしわづらふ昨日今日かな

となむ。わたくしには、「今日しも千年の心地するを、暁にだにとく」とあり。この君ののたはむだにをかしかるべきを、まして仰せの言のさまには、おろかならぬ心ちすれど、啓せむ事はおぼえぬこそ

(清少納言)雲の上も暮らしかねつる春の日を所がらともながめけるかな

わたくしには、「今宵のほども、少将にやなりはべらむずらむ」とて、暁にまゐりたれば、「昨日の返し、『暮らしかねける』こそ。いとにくし。いみじうそしりき」と仰せらるる、いとわびしう、まことにさる事も。

  この贈答歌だが、二首併せてじっくり読み取らないと正しく解釈できない。氏は過去どの碩学の解釈も清少納言の返しにある「春の日」の読解ができていなかったと指摘する。

 従来の解釈は「過ぎにし方」を「清少納言出仕前の月日」のこととして捉えているが、圷訳では「春日遅遅」の思いであり「暮らしわづらふ」精神状態を「春の日というものが、こんなにも切なく過ごし難いものであったとは――!」と捉える。「私はいったいどのようにして過ぎた日々を暮らしてきたのだろうか」というのは、今この時の生き難さ、苦しさをもって述べたものであり、「過ぎにし方」というのは、暮らし難いこの春の日を知らずに過ごした日々のこと。清少納言の不在によって”気づく”ことになった思いで、春の日の《特別な思い》であるという。

 ここで氏は、古今集、万葉集、詩経、白氏文集から「春日遅遅」に関連する歌を挙げ春日の思いの例として提示する。白氏文集からは、「春の日の長き思ひ」「秋の夜長」をより一層長く思わせるものは恋人の不在であるとして次の詩を紹介した。対が美しくて好き。

九月西風興 月冷霜華凝 思君秋長夜 一夜魂九升

二月東風来 草析花心開 思君春日遅 一日腸九廻

九月西風興り、月冷やかにして霜華凝る。君を思うて秋夜長し、一夜魂九升す。

二月東風来り、九析けて花心開く。君を思うて春日遅し、一日腸九廻す。  

 論考の後半では能因本のみ持つ記述が読解、解釈の肝となり過去の読み解き方を喝破できた要因となった。定子が返歌に対し不満を述べた理由は、清少納言が歌で「暮らしかねつる」とすでに済んだこととして完了形で詠んだ箇所を定子が「暮らしかねける」と過去形にし、そこに「こそ」と強調されたことで一層明らかになったという。

贈歌によって訴えた「昨日今日」の生き難さは、清少納言のからの返事を待つ定子にとって、決して「過去」のできごとではないのだ。

 定子は今も春日の生き難さを進行形で感じているのに、清少納言は暢気にも「定子様が後宮でも暮らし難く過ごされた春の日を、私は自分のいる場所のせいだと眺めていました」と過去の出来事として返してしまったことが定子御立腹の理由となる。能因本のみに記される「啓せむ事はおぼえぬこそ(うまい歌で申し上げることができないことが残念)」と清少納言の本心が素直に発露されていることから、返歌には冴え、切れがなく集中できていなかったことが窺える。

 ずっと謎とされていた「少将」の意味だが、他段と関連性を持つという。以下、注釈(8)。

「なほ世にめでたきもの 臨時の夏りのおまへばかりの事」(一四五)の段に、「ゆゆしうせちに物思ひ入れ」た結果、ついに(願いかなって)その所に居つく幽霊となった「少将」(能因本「良少将」。三巻本、前田家本ではそれぞれ「頭中将」「在五中将」)の噂が見える。従来、思い叶わず絶命する「深草少将」の話柄などが引き合いにされているが、作品の中で解すとすれば、清少納言の私信の言と関わるのは、ここ、一四五段の「少将」であろう。 

 つまり、この箇所も能因本にのみ「良少将」の呼称が記されているがゆえ、謎解明が可能になった。また、前半で詠んだ柳の歌について、物忌先の家に生えている「にくげなる」柳の葉にまず目がゆくことは、対極にある「なまめかし」き「柳眉」の世界(定子後宮)を思うがゆえとする。これは「少将」も「柳眉」も、『枕草子』は一段ごと完結するのではなく他段と関連しており全体が一つの「交響詩」として存在する証明となる。『枕草子』に対する印象を氏が「交響詩」と表現していることに共感した。自分もずっと「交響詩」が相応しいと感じていたので。

 過去の学識に疑問を唱え、鋭く正論を展開する手法に心底から魅了された。先入観を取り除き曇りのない視点で臨まなければ見えない境地だと思う。故小西甚一氏が解釈学こそ今、復活されなければならないと提言していたが、圷氏こそ、その解釈学の王道を行く研究者だろう。

 王道を行くにはまずそれに相応しい感性を持ち合わせていなければならないが、氏の感度は驚異的だ。同じ対象を目にしても見える人と見えない人がいる中で氏は宝石のような純度の高い感性を有している。圷解釈学の手法は和歌の読み解きが基軸であり、歌を愛する者としてこの点にとても惹きつけられる。

 論文本文では三巻本での表記を傍線で示し、両本の異同を見やすくする工夫も行っている。外観から読みやすく理解しやすい論考という点でも時代に沿っているだろう。

 能因本には清少納言の本音と思われる記述があちこちに見える。後世、誰かの手が加えられたとされる能因本だが、その手こそ清少納言の最終稿だったことの証拠なのだろう。三巻本と比べ雅やかな筆致なので、ここでまた清少納言の人となりを垣間見ることができる。

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