あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

象徴詩歌のルーツを探る 枕草子の存在

 以下、寄稿としてまとめた。

  「源氏見ざる歌詠みは、遺恨のことなり(「源氏物語」を読まない歌人は、とても残念に思われる)」。藤原定家の父で鎌倉初期に中世和歌の礎を築いた藤原俊成は一一九三年、六百番歌合(冬上十三番「枯野」判詞)にて、日本の精神文化にとり重要な言明を示した。 気配や面影を感じさせる「源氏物語」の興趣こそ歌に取り入れられるべきである――。このように俊成が支持したことで、情景描写から全体の雰囲気を連想させる幽玄の技法が生まれ、のちの連歌や能、俳諧の発展へと結びついていった。だが、さらに掘り下げると一条帝の二人の后にそれぞれ仕えた清少納言の「枕草子」が紫式部の「源氏物語」に多大な影響を与えていることが浮き彫りとなる。つまり「源氏物語」は「枕草子」なくして存在し得なかった。象徴詩歌のルーツと言われる「源氏物語」は、その奥にさらなる源泉を有し、そこから恩恵を受けていた。

 仕えていた后が家のライバル関係に置かれていたこともあり、それぞれの後宮文化を際立たせる目的で清少納言(九九三年、中宮定子に宮仕え開始)と紫式部(一〇〇五年、中宮彰子に宮仕え開始)も同様の関係にあった。よって後行の紫式部が先行の清少納言を意識したことは当然と言えば当然かもしれない。宮中で直接顔を合わせることはなかったというが、間接的に互いの風聞を知り得ていたことは想像にたやすい。

 彰子後宮における文化的記録書と位置付けられる回顧録「紫式部日記」には、紫式部(以下紫女)が清少納言(以下清女)を指弾した興味深い一節がある。

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。(清少納言と言えば、自慢げな顔をしてとんでもない人だったようですよ。あのように賢ぶって漢字を書き散らしていますけれど、よく見ればまだ足りない点がたくさんあります)

 感情をあらわにしたこの批判態度を裏返せば、紫女にとり清女はそれほど大きな存在だったということになる。そのような紫女は、清女の「枕草子」から何を会得し「源氏物語」にどう活用したのか。それにはまず、「枕草子」誕生の背景を知る必要がある。

 清女批判の続きを見てみよう。「枕草子」にまつわる謎を解明した話題作『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』(山本淳子著、朝日選書)がもっとも新しい視点で現代語訳を紹介しているので、同書より引いてみたい。

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。(このように人との違いばかりをすき好む人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただおかしなだけになってしまうもの。風流を気取り切った人は、ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃しませんから、そのうち自ずと現実からかけ離れてしまい、結局はありえない空言になってしまうでしょう。その空言を言い切った人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう)

 紫女が「枕草子」を読んでいたことは「漢字を書き散らしている」と指摘したことから明らかという。興味深いのは、傍線部である。清女の行動について、風流を気取り切り、「ぞっとするようなひどい折にも」感動し続けているので自然と現実からかけ離れ「ありえない空言」になるという。この「ありえない空言」とは何だろう。

 ばらばらに収録されている「枕草子」の日記的章段を史実に沿って並べ読んだ研究(『枕草子日記的章段の研究』『歴史読み 枕草子―清少納言の挑戦状』赤間恵都子著、三省堂)によると、日記的章段と確定できる全三十三段のうち、二十三段は定子の実家が没落した後の悲惨な状況に置かれた後宮の場面だったという。にも拘わらず、清女は極めて華やかな印象の明るい筆致を貫きとおした。つまり、人口に膾炙した楽しく愉快な作風は、実は現状とは異なる演出だった。惨憺たる有様にも拘わらず清女が華麗で晴れ晴れとした定子後宮を描き続けたことを紫女は「空言」として「嘘をついている」と指摘したのだった(山本氏)。

 いつも気遣いを忘れない知的で明朗な定子、凋落を経験し無常の体現となった定子――すべては中宮定子への敬愛と死後の鎮魂の思いを込めて、清女は栄華に輝く定子後宮を描き切った。その結果、紫女が藤原道長の娘、中宮彰子に仕える時世になっても、「枕草子」は変わることなく定子の面影と定子後宮の記憶を人々に伝え平安貴族社会に流布した。清女が渾身の思いで「枕草子」を執筆したことにより、定子の姿は人々の心の中に永久に永らえることになったのである。紫女の清女への酷評の背景には、定子の先導した後宮文化の高評と不遇時代を明るく活写し人気を博した清女をねたむ尽きせぬ思いが幾多も存在したことだろう。

 本題に戻ろう。では、紫女は「枕草子」から何を会得し、どう「源氏物語」に活用したのか。

 第一に、中宮定子の面影と気配の描かれ方ではないかと推測する。死をまじかにした今内裏滞在期間中、定子の具体的な姿や言動はほとんど描かれていない。紫女は、定子が描かれないことによりかえって面影が濃くなり無常観を深めている趣を感じ取ったのではないか。「定子がまったく描かれない段であっても、今内裏にいる清少納言の背後に定子の存在があることは示されている」(赤間氏)ともある。また、実際とは異なる「空言」の描写が栄華と凋落の無常観を際立たせたことも感じたに違いない。目の前にないからこそ、もの哀しく美化される興趣である。

 第二に、絵画的描写である。風巻景次郎(『中世の文学伝統 』岩波文庫)がいうように、「枕草子」は極めて鮮やかな色彩感覚を伴う絵画的描写が印象的である。「(拾遺集から後拾遺集の頃)文学の上では描写が成立して、読む中に、まざまざと視覚的映像をよびさますような技巧が生まれる。これを文芸的な方でいえば、『枕草紙』などは絵画的特色の粋ということが出来るであろう。日本の歴史の上で未だあらわれたことのないものであった」とする。「源氏物語」の情景描写もこの特徴に影響を受けたと思われる。

 第三に、清水好子の言及した「源氏物語」による「枕草子」からの多大な素材利用を挙げたい。『清水好子論文集〈第3巻〉王朝の文学』(武蔵野書院)では、「対抗意識に燃える紫式部は清少納言が指摘しておいたものを、見事に物語の中に生かし切ったことを誇るのであろう」と該当箇所を列挙し、同時に両者の文体比較も行っている。これを第四に挙げよう。「枕草子」をリズムに無関心の短文、引き歌が少なく(わずか六例)、文体に優雅さを心がけた気配がないとし、「源氏物語」はリズムを持った長文で流麗、引き歌が多く文章に七五調のリズムがあることと関係するとしている。両者のまったく異なる文体は、「源氏物語」が「枕草子」を強く意識して執筆された結果だと思わずにはいられない。「源氏物語」が「伊勢物語」のような歌物語の形式をとったことも、「枕草子」との差別化の意味があったのかもしれないとさえ思えた。

 象徴詩歌の源泉を遡るとき、一条帝と中宮定子の存在を抜きにして語ることはできない。象徴を提唱する結社につらなる歌詠みとして、定子を主題にして生まれた「枕草子」「源氏物語」を深く読み、定子周辺の歴史、文化、和歌、そこから派生した中世和歌、能、俳諧連歌の雅から学ぶことこそ、次世代への歌の継承のために実りをもたらすのではないか。そう信じてやまない。(了)

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