あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

日本的象徴を追う

 所属結社の精神を振り返りながら、自らの方向性を確かめてみる。

 潮音の創設者である太田水穂は古典和歌に親しんだ後、芭蕉俳諧の象徴から学び、蕉風を短歌にうつそうとして三十一音における「日本的象徴」を提唱した。

 その芭蕉は、唐詩と古典藝術の影響を受け蕉風を確立。「西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休が茶における、その貫通するもの一なり」(『笈の小文』)と書いている。つまり、芭蕉俳諧を貫くものは、日本の精神文化に連綿と息づく古典的な雅であり、そこから一歩を踏み出して新しみを追究した形を「風雅」と呼んだ。

 「乾坤の変は風雅の種なり」(『三冊子』)とは、芭蕉の俳諧に対する態度である。これを「不易流行」として提唱した。以下、「不易流行」について引く。

…すなわち、誠を責めるものは、どうしても現在の境地に脚を据えていることができず、必然・必死の勢いでひとあし前へ踏み出すが、そこに生まれる新しみが流行である。不易とは永遠に人の心をうつ作品のことであるが、それは、やはり誠を責めてひとあし踏み出すところに生まれるものであって、流行と源を異にするわけではない。(『日本文学史』135-136頁)…

 芭蕉は、不易流行を実践し、「新しみを持ちながら、俗に陥らない雅」を生み出し、高め続けた。これこそが、いつの世にあっても道を歩む創造者の目指すところなのだろうと理解する。芸術に真善美を追究するならば。

 さて、日本的象徴を掲げた水穂が魅せられた蕉風の流れを遡ると、連歌、京極派の象徴から定家・俊成の幽玄、『源氏物語』、そしてその源氏に多大を影響を与えた『枕草子』の源泉にたどり着く。枕の「視覚的映像をよびさますような技巧」や「絵画的要素の支配」を風巻景次郎は「日本の歴史の上で未だあらわれたことのないものであった」と語った。(『中世の文学伝統』40頁)

 ではなぜ、枕に視覚的映像の技巧や絵画的要素の支配が備わったのだろうか。これを解き明かす。その答えが、清少納言の語った「書(ふみ)は、文集、文選、博文…」に横たわると推測しており、漢籍から学びたいと渇望する所以である。日本的象徴のルーツは、漢籍にある。

 牛歩でも少しずつ漢籍から学び、清少納言を解き明かしてみたい。

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