あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

心と詞

 藤原定家らが行った自然の持つ複雑微妙な実相をとらえる詠について振り返る。

 「そのような内容は、いわゆる『心』として独自に存在できるものでなく、かならず『詞』に即して存在するわけだから、二元的に考えることができない。『詞』を離れた『心』は無い。このような筋あいを京極為兼は、

詞にて心を詠まむとすると、心のままに詞のにほひゆくとは、かはれるところにあるこそ(『為兼卿和歌抄』)

といいあらわした。日本的なニュウ・クリティシズムの到達した第一次の頂点である。」(『日本文芸の詩学―分析批評の試みとして』60 頁)

 ウェブ上で詠み始めた初期の作品を分析した。読み返したときに、ざらざら、ごつごつした違和感を抱かず、すうっとそのまま入ってきた作品は全体の 12% だった。つまり、詠んだうちまあまあ納得のいく歌は全体の一割程度しかなかった。

 ざらざら、ごつごつの濁音の部分は、つまり、どこかで妥協している歌。使いたくない言葉を使うと今様に落ち着く…予定調和というか…何というか享受層に馴染みそうな歌。つまり二元的に詠んでいるうしろめたさを感じながら言葉を置いているような感覚があった。これは結社の月詠でもたびたび経験する。

 魚座俳門の句は、すうっと生理食塩水のように心と体に染み入ってくる。自分にとり心と詞が一元的になる感覚はこれだろうと感じ入った。果たしてこの感覚を三十一音で表現することは可能なのだろうか。

 一元的に詠まなければ歌ではない。覚え書きとして。

日本文芸の詩学―分析批評の試みとして

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