あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

日本語が痩せていくとは

 言葉は、時代の移り変わりとともに変遷する。古語が失われて新語が登場することは歴史の繰り返しだろう。ただ、情報革命というパラダイムシフトに置かれた現代は、かつてないほどの大きな変遷を体験していると思う。今が過去と決定的に異なるのは、やはり情報革命の渦中にあるという現状だ。この加速度は過去に存在しない。

 現在は過去の上に形成されるので、過去を顧みない態度は傲慢である。今さえよければいい、自分だけがよければいい…の証明となる。だが、実利や機能を優先する時代は、今だけでよいのであり、表層の分かりやすさや使いやすさを追究する傾向は避けられない。万人に開かれた日本語は便利かもしれないが、同時に文化を抹消する方向へ振り子は動くのであり、微妙なバランスが難しい。

 日本語が痩せていくという感覚は、まず情報革命の渦中において自己中心的な生き方が世を席捲している現状から受ける感覚だと感じた。過去などどうでもいい、今の自分さえよければいいという利己的な心が言葉の「痩せ」に起因する。

 となると、英語はどうなるのだ。とっくの昔に機能語になっている。本国英国の大学でシェイクスピアなど古典の授業が減少していると報じられたのは、確か 30 年近く昔のこと。時代に合わせてということで、英語の機能化は当たり前になっている。アメリカン・ドリームを成就し、億万長者の顔にて実利主義の頂点でものに囲まれた暮しをアピールする。みな、これを体現してみたい。機能語となった英語を駆使すれば、誰にもそのチャンスが開かれている。故国の文化を捨て新天地で生きる者にとっての、得るものと失うもの。そのような構図がある。高度な言語を操る人、深遠な古語を習得している人は一目を置かれる存在でもあるけれど、ただそれだけ、か。

 古語を知るとは、過去に流れた時間へ自らが入り込むこと。過去と他者を顧みることであり、心が肥えることに直結する。表層の実利を求める人々は今だけでよいのであり、それに気づくことができない。あるいは、気づいていても特に何も必要もなければ、別に自分だけよければよい、今だけでいいのである。何といっても、まず、自分の生活だもの。でも、旧約聖書は「はじめにことばありき」で始まっている。言葉の本質的な真理は、ちゃんと歴史が物語っているではないか。

 言葉を大切にできない文化は貧しい…と碩学が言っていた。英語は、少なくとも米国では、すでに記号になっていると感じる。つまり、コンピュータ言語で世界を刷新しけん引しても、貧しい文化に当てはまるのだろうな、などと思った。しかしながら、テクノロジーのおかげで言葉が永らえようとしている真実も同時に発生している、とも。結局、文化論。

 過去と現在と未来の視点を持ちながら、自分には古語を伝える使命がある。これは、「道」であるので、誰かがやらなければならない。

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