あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

能因本と三巻本を比較する

 『枕草子[能因本]』が届いた。ピカピカの本を目の前にしてワクワクしているが、実は何から始めていいのかわからずにもいる。とりあえず冒頭だけ比較してみたい。前が能因本、後が三巻本

 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

 春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

  • 読点のつけ方、つまり息の継ぎ方は、写本ではどう示されているのか知らないが、能因本の方が和歌の流れを汲むと感じた。「やうやうしろくなりゆく山ぎは」と流れ、間を置いて「すこしあかりて」に続く。

  夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍飛びちがひたる。雨など降るさへをかし。

 夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降る、をかし。

  • 「飛びちがふ」ことにはすでに「多く」が含まれているので、三巻本の「多く」は説明的であり、能因本のほうが省略の美が生きている。
  • 「をかし」の繰り返しを割ける能因本の方が歌の在り方を理解している。
  • 雨が降ること「さへ」趣があるという普通の自然現象にも悦びを見出す眼が詩的。

 秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など。

 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず

  • 「夕日」「花やか 」の組み合わせが色彩的に花紅葉を想起。
  • 「まして」のイ音便が「まいて」なので「まして」の方が古語的。
  • 「はた、言ふべきにあらず」余計な一文。

 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。

 冬は、つとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃、火桶の火も白き灰がちになり、わろし。

  • 「など」で白いものの存在の幅を持たせる。
  • 「ぬる」完了形で臨場感を表す。
  • また同時に「ぬるくゆるびもて」の「ぬる」「る」の音を重ねているか。リズムが生まれ和歌的。

 本当に読点が原文ではどうなっているのだろう。息の継ぎ方は明らかに能因本の方が和歌的。また省略が効いているので同時にリズム、流れを生み出している。助詞の使い方も和歌的で無駄がない。

 夏が簡潔で驚いたが、春とうまくバランスがとれている。春夏の文が少なく、秋冬が多め。それぞれ均等でうまく対になっているので、ここは漢籍っぽい。

 三巻本は定家のおかげでWhat(何)の表現は確かになったけれど、その一方でHow(どのように)の表現が消去された感があるのではないか。それゆえに見えないものを見るには能因本を読む必要性が浮かんでくるのだろうが。

 本書は文庫本サイズではなく単行本サイズであり、原文がすごく読みやすい。

©akehonomurasaki