あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

女房たちの人間模様

 『 賀茂保憲女集・赤染衛門集・清少納言集・紫式部集・藤三位集 (和歌文学大系)』月報に藤本宗利・群馬大学助教授の面白い記事を見つけた。例の『紫式部日記』で紫式部が和泉式部・赤染衛門・清少納言の名を挙げ、その人となりを論ずる箇所からの考察である。

 赤染衛門と和泉式部は紫式部が彰子後宮に仕えた際の女房仲間で、定子後宮の威光を遺すために『枕草子』を執筆した清少納言のみライバル女房となる。平安朝女房和歌四天王とまで言えそうな四人には非常に興味深い人間模様が見られた。

 以下、各評は『紫式部日記―付・紫式部集』『紫式部日記』を参照した。

和泉式部評

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとめる詠みそはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みとおぼはべらず。

「和泉式部という方こそ、素晴らしい手紙を書き交わしたようですが、和泉には感心できないところがあります。くつろいで手紙を走り書きする文才のある人で、何気ない言葉も馥郁としているのが見えるようで歌は本当にお上手です。歌の知識、理論は本格的な歌人の風体ではありませんが、口をついて出てくる言葉には必ず目に留まる一節があります。それなのに、人の詠んだ歌に対しては悪口を言ってもそこまで理解はしていず、ただ口から歌が出てくるように見えます。頭の下がるほどの歌人とは思えません。」

赤染衛門評

丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞいひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことを、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。ややもせば、腰はなれぬばかりか折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。

「丹波の守の奥様のことを、中宮様や殿の辺りでは匡衡衛門なんてあだ名で呼んでいますね。この方は特に和歌の上で最高というほどではありませんが、まことに趣があり、歌詠みとしてことあるごとに詠み散らしたりせず、知る限りではちょっとした機会に詠むものも私が恥ずかしくなるほどの詠みぶりでございます。(これに比べれば世の中の)ややもすれば腰の離れるばかりの下手な歌を詠み、教養のありそうな思わせぶりな様子をしているくせに、自分はすぐれていると思っている人など、にくらしく、かわいそうにも思えてしまいます。」

清少納言評

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。

「清少納言と言えば、自慢げな顔をしてとんでもない人だったようですよ。あのように賢ぶって漢字を書き散らしていますけれど、よく見ればまだ足りない点がたくさんあります」

「このように人との違いばかりをすき好む人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただおかしなだけになってしまうもの。風流を気取り切った人は、ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃しませんから、そのうち自ずと現実からかけ離れてしまい、結局はありえない空言になってしまうでしょう。その空言を言い切った人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう」

 赤染衛門に対してはとりあえず賞賛、和泉式部に対しても腐してはいるが一応長所に言及。しかしながら、清少納言に対しては徹底的に感情的とも受け取れるほどにこき下ろした。このキレ方は、それほど手ごわい相手という事実の裏返しになるわけだが。

 藤本氏は彼女たちの家集を併せ見て、その人間関係を紹介する。まず、紫式部が一目を置いていたらしい赤染衛門の集に紫式部との間で取り交わされた和歌の記録はなく、手紙のやりとりで文をほめた和泉式部の集にも記録は遺されていない。「思うに両女とも、紫式部との文通わしを、さして印象にとどめなかったか、書きとめるだけの価値を認めなかったか、あるいは初めから文通の相手としなかったか(とすると、『日記』(紫式部日記)の記述は虚構となるわけだが…)ということになる。」

 その一方で、赤染衛門と和泉式部の間には「信太の森」という贈答歌がよく知られており、和泉の夫婦仲に対する赤染からの忠告という内容からかなり親しい間柄だったことが窺える。しかも、二人の家集にはライバル定子後宮の清少納言とも贈答歌のあったことが遺されている。

 藤本氏は「今を時めく御堂関白家(藤原道長)ゆかりの才媛として、公私を問わず交際相手に事欠かなかったはずの彼女たちが、政治上の利害において対立し、かつすでに零落した中関白家(藤原道隆)に属する少納言に、敢えて消息を送らねばならぬ必要性は、差し当たってなかったはずである。だとすればこの歌々は、彼女たちの発意によって、少納言に詠み送ったものと見ることができよう。どうやら紫式部の自意識とは裏腹に、和泉も赤染も、この新参の一言居士よりも『したり顔にいみじう侍』ったとされる少納言の方を、風雅の友と認めていたようである」としている。

 面白い。紫式部が紙幣になるほど賛美されている現代にあり、当時の人々が実際どう感じていたのか垣間見ることができる。ますます清少納言ファンになってしまうではないか。

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