あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

季が二つ、ときには三つ

 個人的に複数の季を含む和歌に興味をそそられる。一首のうちに、なにか、万華鏡のような異なる色の時空が動き始める感じ。変化に、それぞれの温度、匂い、濃淡が招喚され、鮮やかに浮かんでは消える気色に魅了されるといえばいいのか。瞬間を切り取る俳諧発句とはまったく異なる、歌でしか為しえない時空の在り方に魅せられている。

 季語の存在しない、解放された三十一文字の自由さもいい。

 また、一首における複数季とは、「今ここの季」と異なる一方が「残像」で詠まれることであり、これにも感興が湧く。

 多くは春秋の対照を描く歌と思われるが、他の組み合わせも見受けられ新鮮である。以下、良経、定家の花月百首より他の季を連想させる歌を拾った。おしなべて「花」の方が「月」より季を重ねやすい歌材のようだ。

 

藤原良経

竜田山をりをり見する錦哉もみぢし峰に花咲きにけり 五  

 花の歌において、初句を「竜田山」にて始める勇気がまず自分にあるのか問うた。紅葉で知られる竜田山は「さながら季節ごとに見せる錦だなあ」と「錦」に着目して感嘆し「秋には紅葉した峰に花が咲いたよ」と春の下の句に運ぶ。かなり大胆…。

秋は又鹿の音つげし高砂の尾上のほどよ桜ひとむら 九

 秋の趣を詠みながら最後に浮かび上がる「桜ひとむら」が美しいなと。参考として註には「秋萩の花咲きにけり高砂の尾上の鹿は今や鳴くらん(古今・秋上・藤原敏行)」の秋歌と「高砂の尾上の桜咲きにけり戸山の霞立たずもあらなむ(後拾遺・春上・大江匡房)」と春歌。本歌取りで融合。

 上記、二首とも、もちろん下の句は春で結ぶ。

春夏の空にあはれを残しける月を秋にて今宵見るかな 五三

 春夏に感興を催した月をまた今宵、秋のあわれとして味わっている。月はいつも美しい証拠。一首に冬も詰めこみ四季にしてしまうと、きっとあわれさは失われるだろう。季節は三季まで。珍しい趣向と感じたが、註に先行歌があった。「春夏は空やはかはる秋の夜の月しもいかで照りまさるらん(詞花・秋・藤原家成)」。詞花集という点に注目。

雲消ゆる千里のほかに空さえて月よりうづむ秋の白雪 五九

 「秋の白雪」が斬新と感じたが、月の光を雪に見立てた先行歌あり。「衣手は寒くもあらねど月影をたまらぬ秋の雪とこそ見れ(後撰・秋中・紀貫之)」。同時代の定家にもあった。「月清みよもの大空雲消えて千里の秋を埋む白雪(拾遺愚草)」。二つの季というよりも、見立ての歌なのでここにはそぐわないかもしれない。

今宵誰すゞの篠屋に夢さめて吉野の月に袖濡らすらむ 七一

なかなかに月のくまなき秋の夜はながめにうかぶ五月雨の空 八九

  七一は、桜の「吉野」に「月」の組み合わせ。「誰」とは西行という。七九は、「秋の夜」に「五月雨」の組み合わせ。縦横無尽で枠にはまっていないという印象。それでも美しいなあ、と。

 

藤原定家

花さかり外山の春のからにしき霞のたつもをしきころ哉  六〇三

  ここにも桜と錦の取り合わせ。奇しくも同じ歌会だが、よくあることだったのだろうか。やはり註に「高砂の尾上の桜咲きにけり外山の霞立たずもあらなむ(後拾遺・春上・一二〇匡房)」「唐錦枝にひとむら残れるは秋の形見をたたぬなりけり(拾遺・秋・二二〇遍昭)」。同様の趣向で春と秋の先行歌の融合。

あくがれし雪と月との色とめてこずゑにかをる春の山かげ 六〇八

  はっとさせられる斬新な取り合わせ。註に「王子猷が月の美しい雪の夜、戴安道を訪れた故事を歌う」とあり、雪と月のうっすらとした白色を桜に重ねた。美しすぎる。

そらは雪庭をば月のひかりとていづこに花のありかたづねん 六二六

 六〇八と同様、雪と月と花。耽美。

花をおもふ心にやどるまくずはら秋にもかへす風の音哉 六四七

 花を思う心に、秋風を想起している。移りゆく花の姿を秋の侘しさに重ねたのか。風から飛ぶ、散る、落ちる、舞うの空間を創る飛花落葉の境地。風の音は、心象に吹く聴き取れるか聴き取れないかわからぬほどのかすかな音。

秋篠月清集

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