あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

花月百首

 藤原定家の拾遺愚草で花月百首*1を確かめた。歌人西行の追悼とは記されていないが、注釈欄には「建久元年(一一九〇年)九月十三日夜、九条良経の家で披講された」とある。作者は良経・慈円・定家・有家・寂蓮・丹後ら。同二十二日、百首から各自十首の撰歌合を作り、俊成が加判したという。

 良経二十一歳、定家二十九歳。以下、花五十首、月五十首より各巻頭歌を引用

良経

昔誰かゝる桜の花をうゑて吉野の春の山となしけむ

三日月の秋ほのめかす夕暮は心に萩の風ぞこたふる

定家

さくらばなさきにし日より吉野山そらもひとつにかをるしら雲

秋はきぬ月はこのまにもりそめておきどころなき袖の露哉

  花はともに吉野山。良経の「昔」は西行歌をふまえ、神代の昔を指すという。定家の月の本歌は「木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり」(古今・秋上・読人不知)。定家の方が良経より漢字を開いている。花月百首はどの歌もうっとり恍惚というほかない。

 撰歌合の十首はいずれなのか興味津々。補注に良経の花の巻頭歌について俊成の判詞が記され、「むかし誰と侍るより、吉野を春の山と侍る心もまことにをかしく侍るを」とある。

 それにしてもこれだけの質と量で追悼目的の歌会を催された歌人西行の人間像がさらに神々しく浮かびあがる。この規模の追悼歌会は当時、普通のことだったのだろうか。故人を偲ぶもっとも有意義で美しい時間の過ごし方ではあるまいか。

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