あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

礼記

清少納言の視覚絵画的表現を追究する学びのほかに、もうひとつ探究したいテーマがある。春秋論争である。いつ、どこで、どのように始まったのか。日本では「中国から伝わった」と説明が付くけれど、どこにもその起源を探せないでいる。そこで読んでみたかっ…

日本的象徴を追う

所属結社の精神を振り返りながら、自らの方向性を確かめてみる。 潮音の創設者である太田水穂は古典和歌に親しんだ後、芭蕉俳諧の象徴から学び、蕉風を短歌にうつそうとして三十一音における「日本的象徴」を提唱した。 その芭蕉は、唐詩と古典藝術の影響を…

枕草子から

歌は最期まで詠み続けるわけだが、その間の究極の目的は、清少納言曰く「書(ふみ)は文集。文選。新賦。史記。五帝本紀。願文。表。博士の申文。」(枕草子)に従い、文集、文選…を学びたい。清少納言を読み解くには、ここから読まなければ…と思ったことが…

拓次の文語詩・口語詩

『大手拓次詩集』は、散文詩を含めたほとんどが口語詩なのだが、終盤に少し文語詩が載る。口語詩を読み終えた後に文語詩を読むと、また味わいが異なる。染み入ってくる。感覚として自分には、文語詩のほうが鋭く深く、染み入ってくる。たぶん、文語の語感を…

わからなさについて

写生vs象徴。ずっと言われ続けていることについて振り返ってみる。別の視点として、口語vs文語も絡める。 象徴短歌は、わかりにくい――。他社の方に出会うとよく言われることだ。ここではどうしても、結社内外での享受者層の差が表れる。個人的に、写生派…

続大手拓次

置かれている状況からか、言語はとにかく声に出して読みたくなる。大手拓次の詩は、格好の対象だ。象徴としてのメタファーが鮮やかであり、吸い込まれるように魅了される。かつて夢中になった立原道造や津村信夫とはまったく異なる魅力、というより魔力。そ…

詩人大手拓次

SNS時代、最高の出会いとして挙げた今井杏太郎「魚座」俳門に、新しく詩人大手拓次を加えたい。フランス象徴詩を学ぶ上で追いかけたいと感じていた詩人はランボー、そしてその翻訳で知られる西条八十だった。だが、大手拓次とボードレールに出会い、彼ら…

真善美ふたたび

千首詠におけるさまざまな試みは、貴重な学びである。そのひとつに歌における虚構性がある。一例として入社したころの体験を記す。 象徴を提唱する結社であるからだろう。印象深い語彙の選択は三十一音の短文においてある意味、必須となる。指導者もその要所…

連作

連作とは、「一人の作者が特定の題材に基づいて複数の作品を作り、全体としてもある程度まとまった作品とすること」(ウィキ)。 自分の短歌連作に対する考え方が結社内のそれとまったく異なることもあり、母から説教されそうになったことがある。わたしの 2…

上下周囲

ふと思ったこと。求めるものは、高さ、深さ、広さの三つ。 上へ向かって高みを極める。独学による自分らしさの追究。 下へ向かって深さを掘り下げる。古典学習による知識の追究。 周囲に向かって広げる。現代から学ぶ社会の中での今の追究。 現在、2に夢中…

心と詞

藤原定家らが行った自然の持つ複雑微妙な実相をとらえる詠について振り返る。 「そのような内容は、いわゆる『心』として独自に存在できるものでなく、かならず『詞』に即して存在するわけだから、二元的に考えることができない。『詞』を離れた『心』は無い…

俳句べからず集

『俳句』は、俳句「べからず集」。形容詞・副詞を取り除き、名詞と動詞で詠む句を良しとする。秀句として飯田蛇笏の「くろがねの秋の風鈴鳴りにけり」を挙げる。 観念的なこちら側の言葉(抽象名詞、抽象動詞)ではなく、具体的なあちら側の言葉(具象名詞、…

utakataなどその3

うたかたにて 247 首。それ以前のうたよみん 165 首を加えるとウェブ上の約3か月で計 412 首。両サイト間にて推敲し投稿しなおした歌を差し引いて約 400 首。千首詠まであと 600 首。古の歌人たちはどのような気持ちで多詠をしていたのだろう。「呟けば短歌…

SNSの時代

SNSアレルギーの自分が、SNSのおかげで前に進む、という皮肉。晒す行為を嫌悪する一方で、晒す行為のおかげで出会いがある。この時代の潮流に乗る。 日本美(あるいは真善美)の追究、古典の呼吸の日常化、一人称文学としての短歌の在り方とそれによる…

パンドラの箱

口語短歌と情報革命(SNS)の同時発生が、三十一文字の今後を決定する分岐点になっている。いまだかつて歴史上で経験のなかった歌の変革期であり、未来の短歌の姿が決定される起因となる。 定型と不定型:定型に収まらない歌が多い。気持ちや内容を優先さ…

歌集

一般的に理解されている形態の歌集について、日ごろ思うこと。個人的に、興味はない。思い出として残すのであれば、家族向けへの家集として編集し、家族以外には渡らないものとする。歌集とは本来、家集であったはず。 紫式部集が 126 首、藤原俊成の長秋詠…

Utakata などその2

『Utakata』サイトに編集機能、投稿数表示が実装された。これで連作投稿も、順序は逆になるが、あるいは逆の順番で投稿するか…で、可能になったわけで、歌の林立するこちらのサイトへの移行を考え始める。 インターネットでの投稿を開始した当初の目的は「三…

Utakata など

新しい短歌投稿サイト「Utakata」が開設され、登録してみた。本来あるべき林立する歌の姿に惹かれた。コメントのやりとりやタグ記載が無いので、結社誌と同じようにただ歌を詠み鑑賞することができる。ルビが振れるのも結社誌っぽい。少し極端かもしれないが…

文語と口語

口語短歌花盛りのコミュニティにあり、未来の三十一文字の姿を示してもらっている気持ちになる。現代において直情を発露するには、会話的口語表現はもっとも強い言葉の力を持つ。ただ巧く定型にはまる場合はいいのだが、はまらない場合には一瞬にして歌では…

旧仮名と新仮名

歌には旧仮名遣いを用いる。昔の時間とつながることができ心地良いことが理由。「詞は古く、心は新しく」の教えにも沿う。 けれど、ときどき、古さと新しさの混在に居心地の悪さを感じることもある。先日迷った「赤ずきん」と「赤づきん」。幼少時、絵本の扉…

晒すということ

「歌ぐらい、自分の言いたいことを詠んでいい」。これはよく祖母が言っていたことだ。裏を返せば、現実社会では言いたいことも言えず鬱屈した気持ちがどこかにこもっているから、歌には真実を詠み込めということだろう。それが歌本来の姿なのだから。 問一、…

社会詠と自然詠、そして偽善詠

社会詠と自然詠―。そのイメージはわたしにとり、漢詩と和歌の延長線上にある。大陸に生まれた漢詩の伝統は古くから人の志を表したものであり、権力に対し民衆の声を上げる懇願でもあった。一方、島国の日本において和歌は人の心を表したものとして存在し、自…

アインシュタインの見た中国と日本

ノーベル賞物理学者アルベルト・アインシュタインの日記が出版され話題になっている。タイトルは "The Travel Diaries of Albert Einstein: The Far East, Palestine & Spain 1922 - 1923" 。ここにはアジア歴訪の際の印象が率直がつづられており、彼の目か…

道のはじまり

日本中世に誕生した「道」の理念は、日本の精神文化の屋台骨となる。歌合が遊びから勝負へと変わり、真剣な作歌姿勢が家の存続にまで影響を及ぼした背景は、同時代の欧州文学周辺から仰視すると、高度な文化社会だと称賛せずにはいられない。 道とは何か。わ…

月並み題詠

『紀貫之』は学びの多い良書である。西洋化の嵐が吹き荒れた明治維新直後の和歌革新運動を紹介する中で、大変興味深い旧派のスタイルを紹介している。 当時、宮中和歌を擁護した歌人たちは、文明開化がもたらした「開化新題」―国旗、演説会、時計、牛乳、祝…

本歌取り

表現論として本歌取り論をまとめたのは、藤原定家だという。『日本の文学論』に定家「詠歌大概」による本歌取りの考え方が紹介されている。 歌を詠む者は堪能の先人の秀歌を専ら手本とすべきで、取り入れる古歌の歌詞は、三代集(古今・後撰・拾遺和歌集)に…

三多

短歌投稿サイト「うたよみん」に参加して、「三多」の実践が容易になった。三多とは大辞林によると「文章の上達に必要な三つの条件。すなわち、文章を多く読むこと(看多)、多く書くこと(做多=さた)、多く推敲すること(商量多)」。これは何も文章に限…

芭蕉とつながる

タイトルを「あけほのむらさき」と決めてまもなく、「曙」と「紫」の二語が登場する句と遭遇し瞠目した。それは、松尾芭蕉が紫式部ゆかりの石山寺を訪ねた際の一句。十七音にぴたりと収まり、夜明けの宝石のような美しい空間を表現している。 瀬田に泊りて、…

中宮定子へのオマージュ

「あけほのむらさき」というタイトルは、中宮定子へのオマージュである。「面影」や「気配」といった直接に語らずして心情を描写する「不言の言」の精神文化は、『源氏物語』が由来とされている。その大長編に影響を与えたと言われる『枕草子』は、今からほ…

喝!

結社に所属する一介の歌詠みとして、歌の道の端っこを歩んでみたいと思い始めたのはつい最近のことだ。現在同人。とはいえ年会費を支払いながら忙殺を理由に欠詠の続いた期間は長く、振り返れば出詠期間と欠詠期間がほぼ半分半分か。 「コップ半分の水」の状…

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