あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

社会詠と自然詠、そして偽善詠

 社会詠と自然詠―。そのイメージはわたしにとり、漢詩と和歌の延長線上にある。大陸に生まれた漢詩の伝統は古くから人の志を表したものであり、権力に対し民衆の声を上げる懇願でもあった。一方、島国の日本において和歌は人の心を表したものとして存在し、自然や人間と交わる感情の発露だった。漢詩と和歌、大陸と島国、意思と心情、対と調べ、真名と仮名、どっしりと落ち着き座る凝集と下へ下へと流れ連なる膠着、など極めて対照的だ。

 この伝統を踏まえ可視化する現代にあって、文化的な「モダン」とは「多様性」を意味する傾向が著しくなってきた。これは世界中、どこでもそうだろう。もちろん、歌も然り。歌は多様な側面を有するようになり、心情の発露だけでなく、確固とした意志表明として詠むことも必要とされている。情報革命の渦中で、社会と自分のつながりを無視することはできない時代を迎えており、三十一文字は感情表現だけでなく社会性を持った意思表示や伝達手段、とさまざまな貌を持つ。

 ただ、社会と個人という関係を見るときに、誰しもが社会とつながっていたいとは感じてはいないことも事実である。社会が存在するからこそ個人が存在できる現実は理解しているが、状況がそうさせないのである。とくに、トラウマを抱える人、傷心を負った人、世の中を見つめる余裕がない人、つまり社会的弱者にとり、社会性は一切意味を持たない。

 社会性のある歌を詠む人は、社会的に余裕がある恵まれた強者という一面があることを明記したい。限界状況に追い込まれていないからこそ、現実を直視できるし、詠めるのである。極限に追い込まれている人は、まず現実逃避が必要で、癒しの時間を必要としている。一例として、死線をさまよった戦地からの帰還兵がトラウマを抱え、平常心を保てず社会復帰に困難を極めるケースは、傷心を負った人の心理を代弁しているといえる。

 とはいえ、もちろん社会とのつながりは大切なので、政治の欺瞞や社会の不正に対し訴えていく行為は必要だ。社会的強者は社会的弱者を見守り、社会詠を読み続けるべきである。それが強者の社会的使命なのだから。しかし、毅然とした自らの生き方を実践していなければ、歌の価値は皆無となるだろう。これこそが偽善詠であり、歌本来の姿に反した貧しい人間性の証明となる。偽善詠に陥らないためにはまず、自らの生き方を日々、問い続けるべきである。パーティー、ゴルフ三昧の人々は社会詠から距離をおいた方がいい。現代は短歌コミュニティも多様化しているので、結社ではなく別の組織に所属するのがいいのではないか。歌の道を歩むには、厳しさが必要だ。

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