あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

旧仮名と新仮名

 歌には旧仮名遣いを用いる。昔の時間とつながることができ心地良いことが理由。「詞は古く、心は新しく」の教えにも沿う。

 けれど、ときどき、古さと新しさの混在に居心地の悪さを感じることもある。先日迷った「赤ずきん」と「赤づきん」。幼少時、絵本の扉にはつねに「あかずきん」の明るい文字があった。ひらがなのイメージはすでに「ず」であり、わたしにとり頭巾は「ずきん」で「づきん」ではない。ふりがな文庫では、泉鏡花や竹久夢二が「頭巾」のふりがなを「づきん」としていたが、夏目漱石は「ずきん」だった。自分にとってももちろん「ずきん」。すでにその組み合わせが脳裡に焼き付いている。よって歌では、最初に「ずきん」。ところが結局、「づきん」に直した。この行為が現時点の自分の感性を表しているといえよう。いたずらで元気な「オオカミ」は突如として弱弱しくなった感じの「オホカミ」にした。旧仮名か、新仮名か。「狼」でも「おおかみ」でもなく「オオカミ」を選び、最終的に「オホカミ」にした。日本語はまことに多様である。

 薔薇も同様に、迷ったことは否めない。「薔薇」「ばら」「バラ」あるいは「BARA」「bara」。コンピュータ言語の影響だろうが、横文字でよくみかける組み合わせの遊びにより「BaRA」とか「bArA」とか、アルファベットにするとわけがわからなくなってくる。この発想から、変換の妙で遊ぶ「薔ら」「バ薇」「ばラ」などもありか。英語「ローズ」、仏語「ロゼ」を用いて雰囲気を変えることもできるし、場合によっては薔薇を古語「そうび(さうび)」と読ませることもある。これだけ多様なので、一貫性を持たせないと支離滅裂になりそうな気がする。

 口語と文語はどうか。会話的な口語はまだ使う勇気がなく、漢語の訓読文的な硬さは極力避けたい気持ちは同じ。歌は流れる時間なので、当面、過去とつながる旧仮名遣いを続けてゆく。調べと時空を意識した歌を詠みたい。

©akehonomurasaki