あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

晒すということ

 「歌ぐらい、自分の言いたいことを詠んでいい」。これはよく祖母が言っていたことだ。裏を返せば、現実社会では言いたいことも言えず鬱屈した気持ちがどこかにこもっているから、歌には真実を詠み込めということだろう。それが歌本来の姿なのだから。

 問一、自分の気持ちを素直に晒せるか。うーん、実はわたしはこれが苦手である。ツイッターの呟きも同じこと。皆さんよく、自分の思いをそのまま発露できるものだといつも感心している。短歌はツイッター登場以前から、定型短詩を用い自らの思いを世に晒してきた。晒すこと…わたしはこれがうまくできない。よって、これが歌における最大の課題かと常に自覚している。一方で、晒したくなければ晒さなければいいじゃない、とも思う。それが素直な気持ちなのだから。よって、そのような自分が三十一文字にはきっと反映されている。そしてこの姿勢は、言語発信をして自己肯定を促進する米国型社会においては全くの規格外であり、相手にもされない。別に、それはそれでいい。だが、直接晒さなくても時代に残る何かが存在するのではないか、という非常に確率の低い希望も抱いており、そんな界隈を行ったり来たりしている。

 問二、晒さずに自分の気持ちを晒す方法は何か。「不言の言」としか答えようがない。だが、「言わずして、言う」ことは、米国型社会の潮流と逆行しているので、享受層が内容を理解できない不都合が生じてしまう。よって、コミュニケーション不能。言葉が機能しなくなる。

 問三、言葉が機能する歌とはどのような歌のことか。不明瞭な表現を避けた歌。ただし、雅を忘れてはいけない。そのために、言葉の選択を鋭敏に行うことが肝となる。

 当面、自らが心地よく感じる「晒す」歌を目指す。

©akehonomurasaki