あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

拓次の文語詩・口語詩

 『大手拓次詩集』は、散文詩を含めたほとんどが口語詩なのだが、終盤に少し文語詩が載る。口語詩を読み終えた後に文語詩を読むと、また味わいが異なる。染み入ってくる。感覚として自分には、文語詩のほうが鋭く深く、染み入ってくる。たぶん、文語の語感を知っているからだろう。たぶん、知らない人は口語のほうがわかりやすいと言うのだろう。たぶん、それは触れていないからゆえの感覚なのだろう。そして、たぶん、触れていればきっとわかるはずなのだ。

 昔、教会の祈祷書が文語から口語に変わる時期があり、年輩の方々はみな文語祈祷書の廃止を惜しんでいた。神への祈りの重さが変わってしまう感覚と言っていた。口語であると、神々しくなくなるような。現在、祈祷書は口語文。やさしく、軽やかに話しかけるようなお祈りの文になっている。まるで、絵本を開くような。万人に開かれており、これはこれでいいのかな、とも思う。日本での話。

 適材適所、なのだろうか。でも、消えて欲しくない文語の語感である。ひとつのスタイルとして駆使できることに越したことはない。表現としての幅が広がるのだから。

 流れる叙情に訴えるなら文語なのだろうな、と。歌に向いている。現代短歌は現代詩を三十一文字に収める印象なのだが、あの乾いた語感は口語でいいのだろう。流れずに、乾いた石が置かれているような、壁に写真が貼り付けてあるような、かたまりとして切れ切れに視覚にうったえる言葉群。確かに、すでに「歌」ではなくて「詩」である印象がある。

 流れる歌の伝統がなくなってもいいのかな、とか、雨の日に思った。

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