あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

本歌取り

 表現論として本歌取り論をまとめたのは、藤原定家だという。『日本の文学論』に定家「詠歌大概」による本歌取りの考え方が紹介されている。

  1. 歌を詠む者は堪能の先人の秀歌を専ら手本とすべきで、取り入れる古歌の歌詞は、三代集(古今・後撰・拾遺和歌集)におけるすぐれた先達が用いたものに限る。
  2. 古歌の歌詞を取り入れて新しい歌を詠む時には、本歌の五句のうち二句と三、四字程度まではゆるされる。
  3. その場合、花を詠んだ古歌の歌詞を用いて花を詠み、月を詠んだ古歌の歌詞で月を詠むのは思慮が浅い。
  4. 歌には、斬新な詩情と着想が必要である。模倣はいけない。そのためにも、本歌が四季の歌であれば、恋歌や雑歌を詠むとか、本歌が恋歌や雑歌であれば、その歌詞を四季に詠む工夫が要る。
  5. 近代の歌人が初めて詠み出した心や詞は、たとえ一句でも自分の歌に取り入れてはならない。
  6. 「情以新為先(情は新しきをもって先と為し)、詞以旧可用(詞は旧きをもって用いるべし)」。これは「近代秀歌」に「詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め」と述べたことの繰り返しである。

 五番目が大変興味深い。作歌の際に参考にしようと思う。

 また、あらためて古典主義の意義を確認した。文学史上、不朽の人間像を構築したシェークスピアが少年期にラテン語を学び、のちの作品に大きく影響を及ぼしていることからも、古今東西、古典主義は根幹に置くべきものだと実感する。古典から学び、かさね、うつすもの、それが創造の原動力。

 閑話休題。自分にとり古典とは、三代集時代の漢語と和語、両方になると理解した。枕と源氏の生まれた時代までの詞を、まずは古典と仰ぎたい。

日本の文学論

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