あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

敗者の文学

 ここまで論文読書を重ねて見えてきた事実は、『源氏物語』は勝者の文学であり、『枕草子』は敗者の文学という視座である。藤原四兄弟で、定子の父である長男道隆(中関白家)が病没し、彰子の父である末弟道長(御堂関白家)が権力を手中に収めた政治的背景が、両作品の後の千年に多大な影響を及ぼした。飯島裕三氏曰く「中関白家が中央政界でその権威を失墜し定子が崩御した時には『枕草子』の存在価値は著しく下落したものと思われる」。そして、この史実が「安易な本文改ざんを許すこと」へとつながった。

 ウェブに「勝者は歴史を作り、敗者は文学を作る」との言句を見かけたが、『源氏物語』は二百年後の鎌倉時代、中世歌壇に重視されたことで、その後、不朽の物語へと発展を遂げた。改ざんの多かった『枕草子』は当時ですら正しく理解されていなかったのだろう。しかしながら(何度も書いてしまうが)『枕草子』がなければ『源氏物語』は生まれなかったわけで、現在、『枕草子』研究が進み能因本を中心に新たな解釈の流れが起こりつつあることは日本的美意識、精神文化のルーツを探る上で喜ばしい。

 『枕草子』研究は今、能因本を基点として転換期にある。本文解釈には和歌の正確な読解が不可欠であり、自分も関連和歌の解釈に心血を注ぎ、詠歌への足掛かりとしたい。三代集、白氏文集、『伊勢物語』も不可欠となる。

後撰集における「露」

 定子の辞世歌を意識しながら、後撰集における「露」の歌を拾う。恋歌で知られる後撰集は九十四首。

定子の辞世歌の一首

煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ

つねもなき夏の草葉にをく露を命とたのむ蝉のはかなさ 一九三

今夜かくなかむる袖の露けきは月の霜をや秋とみつらん 二一四

露かけし袂ほすまもなき物をなと秋風のまたき吹らん 二二二

彦星のまれにあふ夜のとこ夏は打はらへども露けかりけり 二三〇

天河ながれて恋ふる七夕の涙なるらし秋のしら露 二四二

風さむみなく松虫の涙こそ草は色とる露とをくらし 二六三

草のいとにぬく白玉とみえつるは秋のむすへる露にそ有ける 二七〇

秋の野の露にをかるゝ女郎花はらふ人なみぬれつゝやふる 二七五

五月雨にぬれにし袖にいとゝしく露をきそふる秋のわひしさ 二七七

おほ方も秋は侘しき時なれと露けかるらん袖をしそ思 二七八

白露のかはるもなにかおしからんありての後もやゝうき物を 二七九

うへたてゝ君かしめゆふ花なれは玉とみえてや露もをくらん 二八〇

おりてみる袖さへぬるゝ女郎花露けき物と今やしるらん 二八一

万よにかゝらん露を女郎花なにおもふとかまたきぬるらん 二八二

万よにかゝらん露を女郎花なにおもふとかまたきぬるらん 二八三

今はゝや打とけぬへき白露の心をくまてよをやへにける 二八四

白露のうへはつれなくおきゐつゝ萩の下はの色をこそみれ 二八五

人はいさことそともなきなかめにそ我は露けき秋もしらるゝ 二八七

秋のよをいたつらにのみおきあかす露は我身のうへにそありける 二九〇

おほかたにをく白露もいまよりは心してこそみるへかりけれ 二九一

露ならぬ我身をおもへと秋の夜をかくこそあかせおきゐなからに 二九二

しら露のおくにあまたの声すれは花のいろ++ありとしら南 二九三

白露のをかまくおしき秋はきを折てはさらに我やかさゝん 三〇〇

秋の田のかりほのいほのとまをあらみわか衣ては露にぬれつゝ 三〇二

我袖に露そをくなる天河雲のしからみなみやこすらん 三〇三

秋萩の枝もとをゝになり行はしら露をもくをけは成けり 三〇四

わかやとの尾花がうへの白露をけたずて玉にぬく物にもか 三〇五

さを鹿の立ならすをのゝ秋萩にをける白露我もけぬへし 三〇六

秋の野の草はいとゝもみえなくにをく白露を玉とぬくらん 三〇七

白露に風の吹しく秋の野はつらぬきとめぬ玉ぞちりける 三〇八

秋のゝにをく白露をけさみれは玉やしけるとおとろかれつゝ 三〇九

をくからに千草の色になる物をしら露とのみ人のいふらん 三一〇

白玉の秋のこのはにやとれるとみゆるは露のはかるなりけり 三一一

秋の野にをく白露のきえざらば玉にぬきてもかけてみてまし 三一二

から衣袖くつるまてをく露はわか身を秋の野とや見るらん 三一三

大空にわか袖ひとつあらなくにかなしく露やわきてをくらん 三一四

朝ごとにをく露袖にうけためて世のうき時の涙にぞかる 三一五

秋の野の草もわけぬをわか袖の物思ふなへに露けかるらん 三一六

ぬきとむる秋しなけれは白露の千種にをける玉もかひなし 三三五

秋の野のにしきのこともみゆる哉色なき露はそめしと思ふに 三六九

あきのゝにいかなる露のをきつめはちゝの草はの色かはるらん 三七〇

かり鳴てさむきあしたの露ならし立田の山をもみたすものは 三七七

をそく疾くいろつく山のもみちはゝをくれさきたつ露や置らん 三八一

数しらず君かよはひをのばへつゝ名だゝる宿の露とならなん 三九四

露たにも名だゝる宿の菊ならば花のあるじやいくよなるらん 三九五

菊のうへにをきゐるべくはあらなくに千とせの身をも露になす哉 三九六

我ことく物思ひけらし白露のよをいたつらにおきあかしつゝ 四二四

秋深みよそにのみきく白露のたかことのはにかゝるなるらん 四二五

いたつらに露にをかるゝ花かとて心もしらぬ人やおりけん 四三一

みな人におられにけりと菊の花君かためにそ露はをきける 四三六

夕暮は松にもかゝるしら露のをくるあしたやきえははつらん 五一二

光まつ露に心をゝける身は消かへりつゝよをそうらむる 五二八

行やらぬ夢ちにまとふたもとには天つ空なき露そをきける 五六〇

かくこふる物としりせはよるはをきて明れは消る露ならましを 五八二

ともかくもいふことのはのみえぬかないつらは露のかゝりところは 六一〇

かゝりける人の心をしら露のをけるものともたのみけるかな 六一四

我ことや君もこふらん白露のおきてもねても袖そかはかぬ 六二七

侘わたる我身は露をおなしくは君かかきねの草にきえなん 六五〇

をく露のかゝる物とはおもへともかれせぬ物はなてしこの花 六九九

恋しきに消かへりつゝ朝露のけさはをきゐん心ちこそせね 七二一

しのゝめにあかて別し袂をそ露やわけしと人やとかむる 七二二

あふさかの木の下露にぬれしよりわか衣ては今もかはかす 七二四

ゆめちにもやとかす人のあらませはねさめに露ははらはさらまし 七七一

涙川なかすねさめもある物をはらふはかりの露やなになり 七七二

白露のおきてあひみぬ事よりはきぬかへしつゝねなんとそ思 八二七

暁のなからましかはしら露のおきてわひしき別せましや 八六三

おきて行人の心を白露の我こそまつはおもひきえぬれ 八六四

つらしとやいひはてゝまし白露の人に心はをかしとおもふを 八九四

なからへは人の心もみるへきに露の命そかなしかりける 八九五

つねよりもおきうかりける暁は露さへかゝる物にそありける 九一四

今まても消てありつる露の身はをくへきやとのあれは成けり 九二三

言のはもみな霜かれに成行は露のやとりもあらしとそ思ふ 九二四

いさや又人の心も白露のおくにもとにも袖のみそひつ 九六五

露はかりぬるらん袖のかはかぬは君かおもひのほとやすくなき 九七五

露の命いつともしらぬよの中になとかつらしと思ひをかるゝ 一〇〇九

なくさむる言のはにたにかゝらすは今もけぬへき露の命を 一〇三二

あさことに露はをけとも人こふるわか言のはゝ色もかはらす 一〇四五

ことしけししはしはたてれよひのまにをけらん露は出てはらはん 一〇八一

我のみは立もかへらぬ暁にわきてもをけるそての露かな 一〇九五

ことのはにたえせぬ露はをくらんやむかしおほゆるまとゐしたれは 一〇九八

わかのりし事をうしとや消にけん草はにかゝる露のいのちは 一一三一

なからへは人の心もみるへきを露のいのちそかなしかりける 一二四八

人心たとへてみれはしら露のきゆるまもなをひさしかりけり 一二六四

我ならぬ草はも物はおもひけりそてより外にをける白露 一二八二

うたゝねのとこにとまれる白玉は君かをきつる露にやあるらん 一二八五

かひもなき草の枕にをく露のなにゝ消なておちとまるらん 一二八六

たとへくる露とひとしき身にしあれは我思ひにも消んとやする 一二九五

打すてゝ君しいなはの露の身はきえぬはかりそありとたのむな 一三一一

いかて猶かさとり山に身をなして露けきたひにそはんとそ思 一三二六

山里の草はの露はしけからんみのしろ衣ぬはすともきよ 一三五五

草枕ゆふてはかりはなになれや露も涙もをきかへりつゝ 一三六七

諸ともになきゐし秋の露はかりかゝらん物と思ひかけきや 一四〇九

世中のかなしき事をきくのうへにをく白露そ涙なりける 一四一〇

きくにたに露けかるらん人のよをめにみし袖を思ひやらなん 一四一一

古今集における「露」

 定子の辞世歌を意識しながら、古今集における「露」の歌を拾う。古今集では長歌一首を含め計四十七首。

定子の辞世歌の一首

煙とも雲ともならぬ身なりとも草葉の露をそれとながめよ

あさ緑いとよりかけて白露を玉にもぬける春の柳か 二七

はちす葉のにごりにしまぬ心もてなにかは露を玉とあさむく 一六五

ひとり寝るとこは草葉にあらねとも秋来る宵はけかりけり 一八八

秋の夜は露こそことにから寒からし草むらごとに虫のわぶれは 一九九

いとはやも鳴きぬる雁か白露の色とる木々も紅葉あへなくに 二〇九

鳴わたる雁の涙やおちつらん物思ふやとの萩の上の露 二二一

萩の露玉にぬかんととれはけぬよしみむ人は枝なからみよ 二二二

おりてみはおちそしぬへき秋萩の枝もたわゝにをける白露 二二三

萩か花ちるらんをのゝ露しもにぬれてをゆかんさよはふくとも 二二四

秋の野にをく白露は玉なれやつらぬきかくるくものいとすち 二二五

月草に衣はすらんあさ露にぬれての後はうつろひぬとも 二四七

白露の色はひとつをいかにして秋の木のはをちゝにそむらん 二五七

秋の夜の露をはつゆとをきなからかりの涙やのへをそむらむ 二五八

秋の露色++ことにをけはこそ山の木のはのちくさなるらめ 二五九

しら露も時雨もいたくもる山は下葉残らす色付にけり 二六〇

雨ふれと露ももらしをかさとりの山はいかてかもみちそめ剣 二六一

露なからおりてかさゝ菊の花おいせぬ秋のひさしかるへく 二七〇

ぬれてほす山路の菊の露のまにいつか千年を我はへにけん 二七三

霜のたて露のぬきこそよはからし山の錦のをれはかつちる 二九一

山田もる秋のかりいほにをく露はいなおほせとりの涙成けり 三〇六

ほにも出ぬ山田をもるとふち衣いなはの露にぬれぬ日はなし 三〇七

けふわかれあすはあふみと思へともよやふけぬらん袖の露けき 三六九

から衣たつ日はきかし朝露のおきてしゆけはけぬへき物を 三七五

白露を玉にぬくとやさゝかにの花にも葉にもいとをみなへし 四三七

あきちかうのは成にけり白露のをける草はも色かはりゆく 四四〇

うちつけにこしとや花の色をみんをく白露のそむるはかりを 四四四

うちつけにこしとや花の色をみんをく白露のそむるはかりを 四五〇

命とて露をたのむにかたけれは物わひしらに鳴のへの虫 四五一

音にのみきくの白露よるはおきてひるは思ひにあへすけぬへし 四七〇

つれもなき人をやねたく白露のおくとはなけきぬとは忍はん 四八六

夕されはいとゝひかたき我袖に秋の露さへをきそはりつゝ 五四五

夢路にも露や置らんよもすからかよへる袖のひちてかはかぬ 五七四

露ならぬ心を花にをきそめて風吹ことに物思ひそつく 五八九

いのちやはなにそは露のあた物をあふにしかへは惜からなくに 六一五

郭公夢かうつゝか朝露のおきてわかれし暁の声 六四一

宮きのゝもとあらのこ萩露をゝもみ風を待こと君をこそまて 六九四

秋ならてをく白露はねさめするわか手枕のしつく成けり 七五七

朝露のおくての山田かりそめにうき世中を思ひぬる哉 八四二

露をなとあたなる物と思ひけん我身も草にをかぬはかりを 八六〇

我うへに露そをくなる天川とわたる船のかひのしつくか 八六三

あはれてふ言の葉ことにをく露は昔をこふる涙成けり 九四〇

(長歌 一〇〇一)

をみなへしなきなやたちし白露をぬれきぬにのみきてわたるらん 一一四七

わかのりし事をうしとやおもひけむ草葉にかゝるの命を 一一五九

賀茂保憲女集のひと

 『賀茂保憲女集』—。一首目から王朝和歌の諷詠とは異なるというのが第一印象。形式は和歌なのだけれど、感覚が何か現代に通じるような系譜に沿っている。十世紀後半に生きた歌人と千年後の今をつなぐ属性は何なのか。

 解説頁を捲り、解を得る。稀代の家集は罹患した疱瘡(もがさ、一説には天然痘)から蘇った個人的な体験を通して編まれたことを知った。「生命の危機に瀕しながらも奇跡的に命を取り止めたことがこの集を作る直接の契機となっている」(武田早苗著)という。だから草木、かもめ、千鳥、鶴、駒、蛙…と自然のいのちを採りあげた歌が多く収録されている。華麗な王朝美よりも、自然を見つめる心が輝いている。

 冒頭に長々と綴られている散文が他の家集と大きく異なる。身上を物語っているのだが、とても悲観的でこちらが沈みそうだ。敷島の世の中、自分ほど悲しい人間はいないと言い切っており、続けざまに鳥虫、草木にも劣り人に並ぶことはないと卑下している。病臥からの苦痛がせつせつと伝わってくる。

 この散文から詞書へとそのまま続く一首目にとにかく心惹かれた。

疱瘡(もがさ)の盛りに目をさへ病みければ、枕上に面白き紅葉を人の置いたりければ、思ひ余りて

くもりつゝ涙しぐるゝ我が目にも猶もみぢ葉はあかく見えけり

  素敵な心遣いを見つけ思わず感極まった涙目にも紅葉は赤く映える。病と涙で充血した目と紅葉の色がうるうると重なり温もりが一首全体を包み込む。こみ上げる熱いうれしさがこちらにも伝わってきた。この紅葉一葉をそっと置いてくれた人はどのような人なのか。そういうあはひの想像も広がった。

 彼女の父親は高名な陰陽学者で男兄弟三人も暦博士、天文博士として任を得ていたが、彼女は出仕もせず家でひっそりと暮らした。叔父に『池亭紀』を記した慶滋保胤がおり、少なからず影響を受けているだろうと推測される。学者の家に育った環境から漢籍や暦に対する知識は並々ではなく、『古今和歌集』『後撰和歌集』『古今和歌六帖』も読み込んで咀嚼し自歌に反映させたことから「引用の歌織物」などと著名人らに評された。ただ、歌壇とは全く交わりがなかった。歌集を読み、ただひたすらいのちを見つめて歌を詠み慰めとしたのだろう。ここに流れた時間から独自の歌風が生まれたことは確かである。集の後半には長歌も収められている。

 勅撰集には五首が入選しており、初入選は『拾遺集』で読み人知らずの表記であった。二首目は『新古今和歌集』でやはり読み人知らず。この時の憶測される背景が面白い。

 武田氏によると冷泉家時雨亭文庫蔵『賀茂女集』表紙には藤原定家の筆で「一首無可取哥(一首も取るべき歌が無い)」との書きつけがあったという。にもかからわず『新古今和歌集』には「読み人知らず」として一首採歌。入選歌の撰者注記に藤原雅経とあることから武田氏は「定家が一首も取るべき歌がないと喝破した歌人の集から、いくら一首とはいえ、彼女の名を明記して撰入するわけにはいかない。そこで、雅経は読み人知らずとして採歌したのではなかったか」と推測する。定家がいかに権威となっていたかがうかがえる。

 「さらに名前が明示された最初の勅撰集が京極派の『風雅和歌集』であることも示唆的」という。それはそうかもしれない。この自然観照の姿勢は時代の先取りだったのだ。その後、二十一代集の最後の勅撰集、二条派が編纂した『新続古今集』にも名前明示で一首入った。

 彼女の感性は、定家の感性とは異なった。しかしながら、定家でさえ世間から理解されない「達磨歌」を詠んでいたのではなかったか。それを大々的に支持したのが後鳥羽院だった。つまり支持者がいて初めて時代に認められる構造は今も昔も変わらない。

 武田氏は『賀茂保憲女集』内部に見える「自閉性、閉塞性は否むべくもないが、一方で彼女の視野の広さは当時にあって、かなり革新的なもの」と評する。「特に序文には彼女の世界観があますところなく語られ、(中略)自然界に向けたまなざしや彼女の思想の根底にある平等感は、現代にも通じる不変性を提示している」とする。千年読み継がれてきた事実が、確かに「不変」あるいは「普遍」を物語っていると感じた。

 自然を見つめる目がとても新鮮に感じられる。これからも繰り返し鑑賞したい歌人となった。

 以下、勅撰集にとられた歌五首。彼女らしさはあまり出ておらず、勅撰集全体に馴染むように撰歌されている。

拾遺集・夏 一一〇(読み人知らず)

今日見れば玉の台もなかりけり菖蒲の草の庵のみして

「今日見れば立派な御殿はなくなってしまい粗末な家だけが残っています(端午の節句のために、どの家でも軒に菖蒲を挿した様を詠じたもの)」

新古今集・雑下 一七四四(読み人知らず)

そむけども天の下をし離れねばいづこにもよる涙成けり

「世を背いても天(雨)の下を離れなかったならば、どこにでも涙雨は降るものです」

風雅集・秋歌中 五四九

秋の夜の寝覚めのほどを雁がねのそらにしればや鳴きわたるらん

「秋の夜の寝覚めの様子を雁がねの行く空に知られているので鳴き渡るのでしょうか」

恋一 一〇三一

思はじと心をもどく心しもまどひまさりて恋しかるらん

「もう思わないと心に逆らって咎める心だけにさらに戸惑い恋しいのです」

 新続古今集・恋三 一二四九

かくばかり人のかたむる逢坂をいかで心の行きかへるらん

「このように人々が約束をする逢坂でどのように心は行ったり来たりするのでしょう」

「蛍」からの考察

 飯島裕三氏の「蛍」の箇所における考察が非常に印象的だった。以下メモ。

夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍飛びちがひたる。雨など降るさへをかし。(能因本)

夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降る、をかし。(三巻本)

  氏は、能因本の記述が簡潔なため「能因本の方に原『枕草子』の姿が残存しているといえよう」とした上で、「蛍」に関するほかの記述を紹介する。

 まず、能因本にも三巻本にもほとんど異同のない『枕草子』の五十段「むしは」。

むしはすゝむしひくらしてう(蝶)松虫きり/╲すはたおりわれからひをむし蛍みのむしいとあはれ也

  「夏になれば毎夜飛び交う蛍を見慣れている平安貴族にとり、われわれ現代人の感覚を持ち込むことは危険である。(中略)五十段での蛍に対する淡泊な記述の姿勢は能因本に近い気がする。三巻本の蛍の描写は、現代人に情緒的に訴えるものを持っているが、果たして清少納言がそのように記したかには再検討が必要ではないかと考えている。」

 古今の感じ方を比較するこの細やかな感性には三嘆である。これが文学の営みであるというお手本を見せていただいた。「淡泊な記述の姿勢は能因本に近い」という指摘に同感である。同様に、追加文との印象を抱いた自分の視点にも重なる。簡潔であるからこそ春夏の均衡がとれていると直観した自分の感性も大事にしようと感じた。

 次に氏は、「蛍」に関してそのほかの先行諸作品を参照する。

 『伊勢物語』三十九段に天下の色好み源至が女車の中に蛍を放ち、姿を見ようとするエピソードがある。また、『うつほ物語』には四か所に蛍の記述がみられる。(宇津保物語研究会編『宇津保物語 本文と索引 本文編』笠間書院)

藤英くれなゐの涙をながして、はづかしくかなしとおもひて、夏はほたるをすゞしきふくろにいれて、ふみのうへにをきてまどろまず(祭使四三二)

 

ひかりをとぢつる夕べは、くさむらのほたるをあつめ、ふゆは雪をつどへて、(同四四二)

 

ほたる、をはしまる御まへわたりに、三・四つれてとびありく。ころもうすみ袖のうちよりみゆるひはみつしほたるるあまやすむらん(内侍の督八五七)

 

よるはほたるをあつめて学問をしはべりし時に(国譲下一五七二)

 「三・四つれてとびありく」という表現は、三巻本『枕草子』との関連があるかもしれないとする。

 先行諸作品を参照する重要性を示していただいた。

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