あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

『枕草子』の原態を求めて

 素晴らしい論文ほどウェブ公開されているのではないかとの印象を持ちながら、飯島裕三氏の「『枕草子』の原態を求めて―三巻本枕草子と能因本枕草子の比較を通して―」(2009年)にも心が震えた。十年ほど前の研究論文だが非常に濃く深く広く対象をめぐりながら認めた内容であり複数研究の基点にできる。ここにはなぜ枕草子の写本がこれほど改ざんされて後世に伝播したかの理由も記されていた。考えてみればアカデミアでは常識なのだろうが、こちらときたらまず「常識」を知ることから始めなければならない。

 自分は歴史学や書誌学の研究者ではないので歴史的背景や史実について先人の学識に頼らざるを得ない。縁もないゆえ研究過程の正確な情報を記している文献選択が肝であり、これを自らの感性を反映させる表現研究に生かせたらいい。海外在住なのでそれしかできずもどかしいところではあるが、受け入れなければならない。 

 飯島氏はまず石田譲二氏(『枕草子』角川文庫)の解説を引用し、両本の特徴を示す。「三巻本は、無造作で乾いた日常語的性格が強く、能因本はよりなだらかで情緒的な雅文的性格が強い」というものだ。能因本は「雅文的」という箇所に首肯したい。

 先行研究では三巻本がより『枕草子』の原態に近いのではないかという見方が一般的だが、飯島氏は能因本に作者の吐露と判断される深い表現が散見されることから能因本こそ原態に近いのではないかという仮説を検証してゆく。

 氏はまず『枕草子』跋文に注視し、能因本と三巻本の比較から、能因本のみに記載される「物暗うなりて文字も書かれずなりにたり 筆も使ひ果ててこれを書き果てばや…」「涙せきあへずこそなりにけれ」は「定子崩御に対する悲痛な叫び」「清少納言本人の心の叫び」ととらえるべきとし、能因本が後に手の加えられた底本である理由としている。『枕草子』は「最初に流布し始めてから数度にわたって手が加えられ、それを何回か繰り返した後に現在のような形になった」と想定する。つまり創出過程はとても流動的な形態であった。

 氏は『枕草子』創出を3期に分けた。

  • 長徳二年(九九六年七月二十一日)~同四年(九九八年十月二十一日)の間までに一度人々の間に出回る。跋文はまだない。初期『枕草子』
  • その数年後、増補された第二期『枕草子』が出現。跋文を有し、現在の三巻本の原形。
  • 定子崩御(一〇〇〇年十二月)の直後に再度校訂された『枕草子』が現存する能因本の原形…ではないかとの推測。

 つまり、「『枕草子』はその成立当初から異なる本文を持つものが複数種類存在していたと考えられる」。加えて中関白家の衰退で後ろ盾を失った定子後宮を描く作品の価値が下がり、後世、恣意的な改ざんが比較的自由に行われてしまった。藤原道長の栄華と権力を背景にした『源氏物語』を勝者の文学とすれば、『枕草子』は敗者の文学として書写過程に『源氏物語』とは異なる影を落としていった。

 『枕草子』の題名について論じた後、氏は冒頭段を能因本、三巻本で比較する。漢字表記に関して、後の時代ほど平仮名から漢字表記にする傾向が認められるとすると、ここでは三巻本の方が後に書写されたとなり、書写に異なる人物が加わっていたことが考えられる。(手が加わりより汚染されている二系統本)

  • 能因本―漢字三十二個(全文字数 二百七十六字/11.6%)
  • 三巻本―漢字四十二個(全文字数 二百四十七字/17%)

 大きな異同は「夏」である。能因本にはない表現(…又、ただ一二なとほのかにうち光りて行もをかし)が三巻本には存在する。よって「ここでは能因本の方に原形の『枕草子』の姿が残存しているといえよう」とし、ほかにも同様の異同は多くあると加えた。

 素人の印象として、「…又、ただ一二なとほのかにうち光りて行もをかし」の一文こそ「秋」の「烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど…」から触発されて後に手の加わえられた箇所ではないかと思ってしまう。氏は『うつほ物語』から蛍関連の表現を四か所挙げ、そのうち『伊勢物語』からの影響が濃厚である「ほたる、をはします御まへわたりに、三・四つれてとびありく。ころもうすみ袖のうちよりみゆるひはみつしほたるるあまやすむらん(内侍の督八五七)」に三巻本との関連性を示唆した。

 次に「秋」では、山際と山の端の表現を検証し、冒頭段のまとめとして「能因本の方にこそ『枕草子』の原態が保存されているといえそうである」としている。

 最後に非常に興味深い指摘があった。菅原孝標女の『更科日記』の中の一節を紹介する。

「物語もとめて、見せよ/╲」と母をせむれば、三条の宮に、親族なる人の、衛門の命婦とてさぶらひける、たづねて、文やりたれば、めづらしがりてよろこびて、御前のをろしたるとて、わざとめでたきさうし(冊子)ども、硯の箱のふたにいれておこせたり。うれしくいみじくて、よるひるこれを見るよりうちはじめ、又/╲も見まほしきに、ありもつかぬ都のほとりに、だれかは物語もとめ、見する人のあらむ。(吉岡曠 校注『更科日記』「新日本古典文学大系」三八三頁)

 ここに見える「三条の宮」は一条天皇第一皇女脩子内親王で、母は皇后定子。推測として『枕草子』の決定稿ともいうべき最終稿は恐らくこの宮にこそ伝来しているはずとして、氏は能因本『枕草子』の奧書の一筋を引用した。

枕草子は、人ごとに持たれども、まことによき本は世にありがたき物なり。(中略)なほこの本もいとよく心よくもおぼえさぶらはず。さきの一条院の一品の宮の本とて見しこそ、めでたかりしか、と本に見えたり。(松尾聡・永井和子 訳・註 笠間文庫『枕草子』能因本三六九頁)

 氏は「わざとめでたきさうし(冊子)」を『枕草子』そのものである可能性を指摘し、だとすれば『更科日記』やそのほかの菅原孝標女作品と言われる『浜松中納言物語』『夜の寝覚』にも影響が及んでいようとする。この証明ができれば、脩子内親王が持ち合わせ親族の中で書写されていたであろう能因本こそ『枕草子』の原態として通ることになる。

 いずれにしても、三巻本との表現異同をじっくり考察していきたいと強く感じた。その際、以下を意識していきたい。

  • 清少納言の本意が表出している箇所
  • 平仮名、漢字の有無
  • 花紅葉の象徴性の表れる箇所
  • 露の象徴性の表れる箇所

能因本と三巻本を比較する

 『枕草子[能因本]』が届いた。ピカピカの本を目の前にしてワクワクしているが、実は何から始めていいのかわからずにもいる。とりあえず冒頭だけ比較してみたい。前が能因本、後が三巻本

 春はあけぼの。やうやうしろくなりゆく山ぎは、すこしあかりて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

 春は、曙。やうやう白くなりゆく、山ぎはすこし明りて、紫だちたる雲のほそくたなびきたる。

  • 読点のつけ方、つまり息の継ぎ方は、写本ではどう示されているのか知らないが、能因本の方が和歌の流れを汲むと感じた。「やうやうしろくなりゆく山ぎは」と流れ、間を置いて「すこしあかりて」に続く。

  夏は夜。月のころはさらなり、やみもなほ蛍飛びちがひたる。雨など降るさへをかし。

 夏は、夜。月のころはさらなり、闇もなほ、蛍の多く飛びちがひたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くも、をかし。雨など降る、をかし。

  • 「飛びちがふ」ことにはすでに「多く」が含まれているので、三巻本の「多く」は説明的であり、能因本のほうが省略の美が生きている。
  • 「をかし」の繰り返しを割ける能因本の方が歌の在り方を理解している。
  • 雨が降ること「さへ」趣があるという普通の自然現象にも悦びを見出す眼が詩的。

 秋は夕暮。夕日花やかにさして山ぎはいと近くなりたるに、烏のねどころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び行くさへあはれなり。まて雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など。

 秋は、夕暮。夕日のさして、山の端いと近うなりたるに、烏の、寝どころへ行くとて、三つ四つ二つなど、飛び急ぐさへ、あはれなり。まて、雁などのつらねたるが、いと小さく見ゆる、いとをかし。日入り果てて、風の音、虫の音など、はた、言ふべきにあらず

  • 「夕日」「花やか 」の組み合わせが色彩的に花紅葉を想起。
  • 「まして」のイ音便が「まいて」なので「まして」の方が古語的。
  • 「はた、言ふべきにあらず」余計な一文。

 冬はつとめて。雪の降りたるは言ふべきにもあらず。霜などのいと白く、またさらでもいと寒きに、火などいそぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもて行けば、炭櫃、火桶の火も、白き灰がちになりぬるはわろし。

 冬は、つとめて。雪の降りたるは、言ふべきにもあらず、霜のいと白きも、またさらでも、いと寒きに、火など急ぎおこして、炭持てわたるも、いとつきづきし。昼になりて、ぬるくゆるびもていけば、炭櫃、火桶の火も白き灰がちになり、わろし。

  • 「など」で白いものの存在の幅を持たせる。
  • 「ぬる」完了形で臨場感を表す。
  • また同時に「ぬるくゆるびもて」の「ぬる」「る」の音を重ねているか。リズムが生まれ和歌的。

 本当に読点が原文ではどうなっているのだろう。息の継ぎ方は明らかに能因本の方が和歌的。また省略が効いているので同時にリズム、流れを生み出している。助詞の使い方も和歌的で無駄がない。

 夏が簡潔で驚いたが、春とうまくバランスがとれている。春夏の文が少なく、秋冬が多め。それぞれ均等でうまく対になっているので、ここは漢籍っぽい。

 三巻本は定家のおかげでWhat(何)の表現は確かになったけれど、その一方でHow(どのように)の表現が消去された感があるのではないか。それゆえに見えないものを見るには能因本を読む必要性が浮かんでくるのだろうが。

 本書は文庫本サイズではなく単行本サイズであり、原文がすごく読みやすい。

女房たちの人間模様

 『 賀茂保憲女集・赤染衛門集・清少納言集・紫式部集・藤三位集 (和歌文学大系)』月報に藤本宗利・群馬大学助教授の面白い記事を見つけた。例の『紫式部日記』で紫式部が和泉式部・赤染衛門・清少納言の名を挙げ、その人となりを論ずる箇所からの考察である。

 赤染衛門と和泉式部は紫式部が彰子後宮に仕えた際の女房仲間で、定子後宮の威光を遺すために『枕草子』を執筆した清少納言のみライバル女房となる。平安朝女房和歌四天王とまで言えそうな四人には非常に興味深い人間模様が見られた。

 以下、各評は『紫式部日記―付・紫式部集』『紫式部日記』を参照した。

和泉式部評

和泉式部といふ人こそ、おもしろう書きかはしける。されど、和泉はけしからぬかたこそあれ。うちとけて文はしり書きたるに、そのかたの才ある人、はかない言葉の、にほひも見えはべるめり。歌は、いとをかしきこと。ものおぼえ、歌のことわり、まことの歌詠みざまにこそはべらざめれ、口にまかせたることどもに、かならずをかしき一ふしの、目にとめる詠みそはべり。それだに、人の詠みたらむ歌、難じことわりゐたらむは、いでやさまで心は得じ。口にいと歌の詠まるるなめりとぞ、見えたるすぢにはべるかし。恥づかしげの歌詠みとおぼはべらず。

「和泉式部という方こそ、素晴らしい手紙を書き交わしたようですが、和泉には感心できないところがあります。くつろいで手紙を走り書きする文才のある人で、何気ない言葉も馥郁としているのが見えるようで歌は本当にお上手です。歌の知識、理論は本格的な歌人の風体ではありませんが、口をついて出てくる言葉には必ず目に留まる一節があります。それなのに、人の詠んだ歌に対しては悪口を言ってもそこまで理解はしていず、ただ口から歌が出てくるように見えます。頭の下がるほどの歌人とは思えません。」

赤染衛門評

丹波の守の北の方をば、宮、殿などのわたりには、匡衡衛門とぞいひはべる。ことにやむごとなきほどならねど、まことにゆゑゆゑしく、歌詠みとて、よろづのことにつけて詠みちらさねど、聞えたるかぎりは、はかなきをりふしのことを、それこそ恥づかしき口つきにはべれ。ややもせば、腰はなれぬばかり折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。ややもせば、腰はなれぬばかりか折れかかりたる歌を詠み出で、えもいはぬよしばみごとしても、われかしこに思ひたる人、にくくもいとほしくもおぼえはべるわざなり。

「丹波の守の奥様のことを、中宮様や殿の辺りでは匡衡衛門なんてあだ名で呼んでいますね。この方は特に和歌の上で最高というほどではありませんが、まことに趣があり、歌詠みとしてことあるごとに詠み散らしたりせず、知る限りではちょっとした機会に詠むものも私が恥ずかしくなるほどの詠みぶりでございます。(これに比べれば世の中の)ややもすれば腰の離れるばかりの下手な歌を詠み、教養のありそうな思わせぶりな様子をしているくせに、自分はすぐれていると思っている人など、にくらしく、かわいそうにも思えてしまいます。」

清少納言評

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだになりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。

「清少納言と言えば、自慢げな顔をしてとんでもない人だったようですよ。あのように賢ぶって漢字を書き散らしていますけれど、よく見ればまだ足りない点がたくさんあります」

「このように人との違いばかりをすき好む人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただおかしなだけになってしまうもの。風流を気取り切った人は、ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃しませんから、そのうち自ずと現実からかけ離れてしまい、結局はありえない空言になってしまうでしょう。その空言を言い切った人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう」

 赤染衛門に対してはとりあえず賞賛、和泉式部に対しても腐してはいるが一応長所に言及。しかしながら、清少納言に対しては徹底的に感情的とも受け取れるほどにこき下ろした。このキレ方は、それほど手ごわい相手という事実の裏返しになるわけだが。

 藤本氏は彼女たちの家集を併せ見て、その人間関係を紹介する。まず、紫式部が一目を置いていたらしい赤染衛門の集に紫式部との間で取り交わされた和歌の記録はなく、手紙のやりとりで文をほめた和泉式部の集にも記録は遺されていない。「思うに両女とも、紫式部との文通わしを、さして印象にとどめなかったか、書きとめるだけの価値を認めなかったか、あるいは初めから文通の相手としなかったか(とすると、『日記』(紫式部日記)の記述は虚構となるわけだが…)ということになる。」

 その一方で、赤染衛門と和泉式部の間には「信太の森」という贈答歌がよく知られており、和泉の夫婦仲に対する赤染からの忠告という内容からかなり親しい間柄だったことが窺える。しかも、二人の家集にはライバル定子後宮の清少納言とも贈答歌のあったことが遺されている。

 藤本氏は「今を時めく御堂関白家(藤原道長)ゆかりの才媛として、公私を問わず交際相手に事欠かなかったはずの彼女たちが、政治上の利害において対立し、かつすでに零落した中関白家(藤原道隆)に属する少納言に、敢えて消息を送らねばならぬ必要性は、差し当たってなかったはずである。だとすればこの歌々は、彼女たちの発意によって、少納言に詠み送ったものと見ることができよう。どうやら紫式部の自意識とは裏腹に、和泉も赤染も、この新参の一言居士よりも『したり顔にいみじう侍』ったとされる少納言の方を、風雅の友と認めていたようである」としている。

 面白い。紫式部が紙幣になるほど賛美されている現代にあり、当時の人々が実際どう感じていたのか垣間見ることができる。ますます清少納言ファンになってしまうではないか。

写本と校註

 藤原定家の日本文学における功績は計り知れない。だが、その功績のおかげで、真実が後世に伝わらない現象が生じてしまう。それは平安朝文学で起きている。

 例えば定家校註の『源氏物語』において言葉の使用などを問題にする場合、定家写本と言われている三巻本『枕草子』は参考にならない、という事実。校註者が定家で同じなので、結局同じ解を手にする、ということになる。

 『源氏物語』でも『枕草子』でも「定家本」だけを読んでいると、見えるものは同じなので謎が解けないということである。「定家本」は分かりやすいけれど、謎はそのまま。

 時代を通過してきた書物の存在を考えされられた。校注者の知識によりそれは図らず改変されてしまう。新しい視点を授けていただいた。時代は能因本なのだろう。

夏と冬

 ツイッターに「雪月花には夏がない。花鳥風月には冬がない」との文を見つけた。なるほど、本当にそう。雪月花の出典は白氏文集だが、花鳥風月は何なのだろう。一説に世阿弥の能楽論よりと耳にしたが、世界大百科事典第2版にも以下があった。

風姿花伝(一四〇〇~〇二頃)二「源平などの名のある人の事を花鳥風月に作り寄せて」

御伽草子。《扇合物語》《花風物語》ともいう。萩原院(花園天皇)御代(在位一三〇八~一三一八)、都西山の葉室中納言の御所で扇合が行われたおり、公卿一人と口覆いをした女房とをかいた希代不思議の絵をめぐって、これを在原業平とする側と光源氏とする側との二手に分かれて相論に及び、巫の花鳥・風月に占わせることとなる。両人はもと出羽羽黒の者で、人を梓の弓にかけて口寄せすること神変の姉妹で、業平側の人々の問いに応じて花鳥は短冊一つ取り出し、早速業平と占う。

 「花鳥風月」を検索にかけてみたら日本語を学ぶ中国の方が大変興味深い疑問を質問サイトにて投げかけており、これもメモ。この四字熟語に関してはいつか目にしたことがあったけれど、もしやここだったのかな。そうそう、中国語の方の表現は否定的な意味も含まれるとのことだった。ここだと思う。

 中国語では「風花雪月」なのに日本語では「花鳥風月」と表現し「雪」を除き「鳥」を加えている。中国語の「風花雪月」には「自然の美しい風景」という意味のほかに、「美辞麗句を並べただけで中身がなく、没落貴族の情緒を反映した詩文を指す」という比喩もあり、日本語にも同様の意味があるのだろうか。質問者はそんな風に疑問を投げかける。この「花鳥風月」と「風花雪月」のやり取りを見ていると漢詩をもっと知りたいなと思わずにはいられない。

 一方、春秋論争の起源が未だ分からずもやもやしている間、とても楽しみな論文を一本見つけ手にするのを心待ちにしている。田中新一氏の『平安朝文学に見る二元的四季観』(風間書房1990年)であり、ここで「春と秋の二元的四季観を持つ平安朝文学の中で『枕草子』は例外である」との指摘がなされた。

 現在、航空便が再び停止となったため船便により待たされるのが辛い。

春秋論争 - あけほのむらさき手帖

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