あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

「重い主題」をきっかけに

 詩歌の批評に関して参考にする機会の多い『俳句の世界』だが、不可解な箇所が一つだけある。小林一茶を次のように評した249頁である。

…ドナルド・キーン教授の『日本文學史』近世篇下(二二四-二五頁)に、一茶の句は確かに心に残るけれど、結局は「重い主題」を採りあげなかったことから、ものたりなさも残る――と批評する。わたくしも同感である。

 何度読んでも鍵括弧で強調される「重い主題」に引っかかる。ここでいう「重い主題」とは何なのか。初読時には咄嗟に「人の生死」のことだろうかと思った。あるいは、「人生の苦境」のようなものか、とも。一茶は継母との関係が悪く十五歳で江戸に出て、その後も故郷の人々との人間関係は長きにわたり冷えたままだった。それでも、ここでいう「重い主題」を採りあげたことにはならないようだ。

 本書は松尾芭蕉を中心俳諧師として第四章に82頁を割き、「芭蕉その人が生きた俳諧史…、俳諧表現の主要な問題は、ほとんど芭蕉に尽きる」と称えている。すでに英語でHAIKUとなり米国では小学生が最初に触れる創作詩として授業に取り入れられるぐらいなので*1、芭蕉の歴史的地位は揺るがない。次に与謝野蕪村が芭蕉に続くが、一茶は俳諧史三大頂点の一人と言われながら「歴史的な俳風の展開に参与しなかった…傍流の人であるよりほかない」と低評価である。つまり「重い主題」とは新しい俳風の模索に取り組み苦悩すること、とも解せるかもしれない。一茶は個人の人生にのみ思いをかけ、系譜としての俳諧には目を向けることができなかった。

 一茶が俳諧史的に深く貢献しなかった事実は措いておき、ここでは前者の意味する「重い主題」について考えてみたい。近松門左衛門の「人情」に魅せられ浄瑠璃を研究されたキーン氏とあれば、やはり人間描写が「重い主題」に直結するのかもしれないと感じたからだ。

 そこで、「人間を描くこと」はそれほど重要なことなのだろうかとまず問いたい。ヒューマニズムは人間中心、人間尊重を基調とする思想態度で人間の基本である。しかしながら正直に言うと、この価値観を祭り上げ、あまりにも明治以降の西洋文化の主義主張を崇拝しすぎていやしないかとも個人的に感じている。

 繰り返すと、もちろん人の生死は人間の本質的な事象であり原点である。でも、これだけ世の中が可視化してグローバル化が進んだ今、感じ方にも多様性があることはすでに証明されている。何が人を感動させるかには多岐にわたる背景や要素があるはずで、本物のように描く写実的な絵画が人々を驚かせる一方で、光と影を描く印象派の絵画が人々を慰めたりする。感動の要因はさまざまに存在する。

 日本の精神史を刮目すると、日本的美意識の源である勅撰集では必ず四季歌が冒頭で、恋歌の部立ても続く核として据えられる。人生を寿ぐ賀歌と死を悼む哀傷歌は対となり、その後に配される。ここから見てとれることは、人間にまつわる事象はむしろ当たり前のこととして扱われているということである。自然に当たり前であるから生死の優先順位は低い。このためさらに吐露すれば、自分の中では感情を揺さぶり涙を誘う生死といった「重い主題」に焦点を当てることが、返って何か不自然に感じられる理由になっている。

 「重い主題」を扱うことが最高の芸術なのかと問われると、それだけではないと答えたい。生死は当たり前のことであり、それだけに人間の生死に濃淡、明暗、光と影を与え、慰めや悦びをもたらすまわりの時空を描く心、姿勢の方がずっと広く深く貴いと思われる。そこには自ずと人間性も表れる。

 未曾有の地球規模の疫、失業、人権運動の波を機に、表現活動への視点も変わる方向に進むといい。

俳句の世界 - あけほのむらさき

*1:575の音節-syllable-で詠む

©akehonomurasaki