あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

花鳥の使の意

 「花鳥の使」は古今和歌集真名序に見える言葉である。「(和歌は)…好色の家には、此れを以ちて花鳥の使となし、乞食の客は、此れを以ちて活計のなかだちとなすことあるに至る。故に半ばは婦人のたすけとなり、ますらをの前に進めがたし」。

 『詩人・菅原道真―うつしの美学』(109頁)に、元来、中国の故事に由来する語で、(孫引きになるが)諸橋大漢和によると「唐、開元年中、後宮に入るべき天下の美人を采択する任務を年々差遣せられた使者」云々…「恋のとりもちをするもの」という意味で使われているそうだ。つまり、「花鳥は要するに恋愛、あるいは色ごとの同意語」だそうで、「自然界の花と鳥を人事における美しいもののメタファーに流用したもの」という。

 ちなみに大辞林には「花鳥の使:(唐の玄宗が、天下の美人を選びもとめるために遣わした使者の意から)恋文を持って行って男女の仲立ちをする使者。恋のなかだち」とある。

 恋愛をつなげる役割が花と鳥。心を詠むことが歌であるのだから、恋愛こそ歌の本質であり、その本質を支える使命を担う花と鳥…ということになるか。勅撰集では四季の部立てが先に置かれていることから、長きにわたり自然詠が歌本来の姿であろうと認識していた。だが、本を正せば恋こそ先であった。

 高浜虚子の唱えた自然詠奨励「花鳥諷詠」に馴染み深いため、花鳥元来の意味は知らないままでいた。

 と、以上は数年前の発見だったのだが、書き留めておくべきだった。

 花と鳥は好きなイメージで歌材としてよく使う。もっと深く考えて詠むべきであることは言うまでもない。

詩人・菅原道真―うつしの美学

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