あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

一条朝の火花

 10 世紀末、平安一条朝は、中宮定子に仕えた清少納言と中宮彰子に仕えた紫式部が生きた時代。藤原家の権力闘争の渦中、一条天皇の二人の后にそれぞれ仕えた女房として、両者は健筆をふるうことでしたたかに火花を散らした。

 彰子後宮における回顧録『紫式部日記』には、紫式部が清少納言にライバル心を抱いていた証となる意味深い一節が記されている。ここで紫式部は、辛辣に清少納言を批判し露骨に苛立ちを表した。良著『歴史読み 枕草子―清少納言の挑戦状』は、時系列がばらばらに編纂されている『枕草子』の日記的章段を当時の記録と照らし合わせて史実に沿って読み解き、この「酷評」の背景を明らかにする。

 著者の研究によると、人口に膾炙した華やかな印象の『枕草子』とは対照的に、日記的章段と確定できる全 33 段のうち、23 段は定子の実家が没落した後の悲惨な状況に置かれた後宮の場面だったという。だが、清少納言は、知的で明朗、女房たちへの心遣いを忘れない定子への敬愛、凋落を経験し無常の体現となった定子への鎮魂の思いを込めて、明るい筆致を貫きとおした。書くことと書かないことを無言のうちに示しながら。

 それでも、唯一、日記的章段群の終盤に、清少納言が定子に対し「あはれ」という語を使用した段があり、紹介されている。最も親しい乳母が定子を離れ、経済的に安定している地方官の夫とともに日向の国に旅立つときに、定子が詠んだ歌。

あかねさす日に向ひても思ひ出でよ都は晴れぬながめすらむと(明るく輝く日に向かって旅立っても、思い出してください。都では晴れぬ長雨の中で私が物思いに沈んでいるであろうと。)

 この章段の末尾で清少納言は、こう記した。

御手にて書かせたまへる、いみじうあはれなり。さる君を見おきたてまつりてこそ、え行くまじけれ。(中宮様の御直筆でお書きになっているのは、本当にしみじみと悲しいことです。このような主人の様子を拝見して、そのままお見捨て申しあげて行くことなど、どうしてできるでしょうか。)(163-164p)

  著者はこの箇所について、「最後まで明るさを演出し続けた『枕草子』の底流に、定子の運命を悲しむ清少納言の真実の思いがあった」と指摘する。幼い頃から世話をしてもらった乳母からも見限られた定子の悲しみを傍らで感じ、不覚にもずっとこらえてきた思いを吐露してしまった、と。乳母の旅立ちは、清少納言にとり「自分だけは最後まで定子のそばにいる、決して離れはしない」と定子への忠誠を固く決意するできごとでもあった。

 無常の象徴となった中宮定子の崩御は、当時の平安社会に波紋を広げ、若い公家たちが相次いで出家するほどの社会現象にもなったという。栄華にときめいた定子という煌く光があったからこそ、零落後は哀しい翳がことさらに染み入ってくる、そのような心情に人々は涙した。

 こうして紫式部が藤原道長の娘、中宮彰子に仕える時世になっても、『枕草子』は変わることなく定子の面影と定子後宮の記憶を人々に伝え続けた。紫式部の清少納言への酷評の背景には、定子の先導した後宮文化の高評と、たとえ不遇の時代でもその様子を明るく活写した清少納言をねたむ尽きせぬ思いが幾多も存在したことだろう。

 上記の研究と同様に、さらに『枕草子』の事象を掘り下げた一冊が別の著者による『枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い』である。冒頭から、酷評の箇所を引く。

清少納言こそ、したり顔にいみじう侍りける人。さばかりさかしだち、真名書き散らして侍るほども、よく見れば、まだいと足らぬこと多かり。(清少納言こそは、得意顔でとんでもなかったとかいう人。あれほど利口ぶって、漢字をばらまいていますけれど、その学識の程度も、よく見ればまだまだ足りない点だらけです。)

かく、人に異ならむと思ひ好める人は、必ず見劣りし、行末うたてのみ侍るは。艶になりぬる人は、いとすごうすずろなる折も、もののあはれにすすみ、をかしきことも見過ぐさぬほどに、おのづから、さるまじくあだなるさまにもなるに侍るべし。そのあだなりぬる人の果て、いかでかはよく侍らむ。(このように人との違いばかりをすき好む人は、やがて必ず見劣りし、行く末はただおかしなだけになってしまうもの。風流を気取り切った人は、ぞっとするようなひどい折にも「ああ」と感動し「素敵」とときめく事を見逃しませんから、そのうち自ずと現実からかけ離れてしまい、結局はありえない空言になってしまうでしょう。その空言を言い切った人の成れの果ては、どうして良いものでございましょう。)

  紫式部がこう感情的になって発露するほど、清少納言と『枕草子』は計り知れない存在だった。『源氏物語』には随所に『枕草子』の影響が見られるという。

歴史読み 枕草子―清少納言の挑戦状
枕草子のたくらみ 「春はあけぼの」に秘められた思い

©akehonomurasaki