あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

定家の書写

 『藤原定家全歌集 下』解説は、後鳥羽院との関係を拗らせた藤原定家が籠居に至り、一年後に勃発した承久の乱のさなか、多くの古典書写に及んだことを紹介する。『後撰和歌集』『拾遺和歌集』など三代集、『源氏物語』『伊勢物語』『大和物語』などの物語、『土佐日記』『更科日記』などの日記を書写。また三巻本の『枕草子』奥書に見られる「耄及愚翁(もうぎゅうぐおう)」も定家らしいと考えられている。

 大乱の世に、定家は静謐に古を希求した。有名な「紅旗征戎非吾事」は、記された時が青年期か老年期か真偽のほどはわからないが、文意から心理状態はうかがえる。これらの写本が後世の古典研究に大きく寄与した事実は言うまでもない。歌、歌論、書写と兎に角功績は計り知れない。

 十三年を費やし定家全歌(四六三一首)に注釈を施した大著の文庫版あとがきを、泰斗久保田淳氏は次のように切り出す。

 この世に生を享けた人はすべて、おのがじしの行き方で少なくとも自身にとっては意味ある生を送ろうと努めているのに違いない。が、棺を覆った時、その人物が後世に遺したものには何と個人差があることであろうか。

 ほとんど何物も遺さず、何の足跡すらも留めず、世を去ってゆく多くの人々がいる。非常に質の高い、しかし量的にはごく僅かの仕事を遺してゆく人もいる。おびただしい量に上る仕事を手がけたものの、それらは客観的に決してすぐれているとは言えず、まもなくその仕事とともに忘れ去られてしまう人もいる。…

 定家は八十年の生涯を送った歌人。父・俊成の薫陶を受け順風満帆に人生を送った印象がある一方で、彼の日記『明月記』では帝との関係、昇進、家族の将来に心を悩ませる繊細な感性の持ち主だったこともうかがわれる。

…生が苦しくてつらいからこそ、彼の言葉の技は美しい夢を紬ぎ出したのであった。

 定家は歌に夢を見たかった。晩年に試みた書写は彼にとり聖なる時間だった。

 自分はたぶん「ほとんど何物も遺さず、何の足跡すらも留めず、世を去ってゆく」人物の独りだろう。名前は忘れられても別に構わないが、歌はたとえ一首でも後世の人を幸せにできたらいいなと願う。

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