あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

向き合う

 このツイートが心に刺さり、記しておこうと思った。写実的技巧派である著名画家さんの九連投ツイートだが、芸術すべてにあてはまる事象だ。ただ、絵画ならデッサン、音楽や舞踏なら基礎…と技術を磨く道程のはっきりしている分野と歌(ここでは現代短歌になるだろう)はまた違う。冷泉貴美子氏が「和歌は、芸、あるいは技に置き換えられるものかもしれない」と記されていたことを思い出す。*1

 和歌であれば、芸、あるいは技の源はあきらかに古典教養であったに違いない。しかし、明治以降、歌は自然主義や自由主義の潮流に乗り、私を基軸とする自己表現の流れへと移り変わっていった。

 まことを知る人は、社会にうねりを生む鋭い力作を残す。世界規模では、ピカソのゲルニカや、現代であればたとえばバンクシーのような。あのモネの睡蓮も第一次世界大戦の反戦を訴えた大作だったという。

 言及したのは美術界のことであり、加えてあまりにも例が壮大でめまいがするけれど、では、歌に何ができるのだろう。

 マクロであれミクロであれ、このツイートに言われている真摯に向き合う姿勢を持ち続けることではなかろうか。これを続けることが次世代への贈りものになるからだ。

 それにしても、歌の基礎とは何だろう。デッサンは紙と筆記用具だけのシンプルな空間から始まる。ならば、歌の基礎はまず写生か。三十一文字の写生ができて初めて次に進めるのか。となると、馥郁たる写生には古典の下地が必要なのではないか。

 かなりの殴り書きになってしまった。

©akehonomurasaki