あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

和歌が伝える日本の美のかたち

 六畳院さんが薦められていた『和歌が伝える 日本の美のかたち』を求めた。季節素材の扱い方を知りたかったのが一番の理由である。往時と現代では旧暦と新暦の存在から差異があり、人や書籍により言っていることがさまざまで曖昧になっていると感じていた。

 帯にある通り「…(和歌を)味わうときも歌作りにも役立つエッセイ」だと首肯した。月ごとに和歌を一首紹介し、そこから見えてくる気色を自然界の事象も含め、たおやかな日本語で紹介する。これが第一部「季節の和歌」。とても参考になる。

 第二部「冷泉家の和歌」の扉には本質に迫る歴史的な事実が記されていた。近現代短歌と和歌の違いについてである。的を射た指摘に、自分の心の居場所を示していただき愉悦した。以下、引用から共鳴した部分に下線を引いた。

…短歌は近代以後の自我の表現の一手段とされている。すべての歌人、あるいは結社は私とあなたとが異なることを、五七五七七の中に表現することを至上とし、一首を創作する…。

 これに対し、冷泉家の和歌は私とあなたは同じであることを見出すものである。近代的思想の下で、自己を表現することを芸術というならば、冷泉家の和歌は、芸、あるいは技におきかえられるものかもしれない。

 私は芸、技を「道」として捉える。冷泉家の歌会では題詠の一首を朗詠で歌い聴き、「共通の季節感に浸る」ことで古今と場のつながりに親しみ和み心を慈しむという。

 ただ、現代に詠む和歌とはどのようなものかと疑問も湧く。現代に生き中古と同じ歌は詠めないだろう。詠むならば現代和歌、あるいはもっと進めてモダン和歌、コンテンポラリー和歌か。迷う。そこで俊成・定家父子ではないかと思った。

俊成

歌は、広く求め、遠く聞く道にあらず。心より出でて、自ら悟る物なり。

定家

詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め…

 八百年を経ても、求めたい教え。これを今、どう実践するのか。日々、試行錯誤か。

 本書巻頭に定家自筆「春哥」「夏哥」「秋哥」「冬哥」の文字が美しい京の写真と共に掲載されている。能書家たちの間で人気のある定家だそうだが、目にしてとてもユニークで味わい深いゆゑと納得がいった。 

和歌が伝える 日本の美のかたち

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