あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

邂逅

 本との出会いは、奇跡に近い。特に個人的な体験からすると、世紀の名著、小西甚一の『日本文学史』との邂逅は今振り返ってみても、やはり奇跡だった。

 今から二十数年前になる。おりしも、世の中は日本語ブーム。帰省の際に訪ねた駅前書店の入り口には、日本語、日本文化関連の書籍が所せましと平積みされていた。その中の一冊。内容を吟味してというよりも、タイトルとは不釣り合いのスレンダーな薄さがかえって目についたのだと思う。

 数年の間、積読状態だったのだが、のちにじっくりと読んでみて、これがドナルド・キーンに影響を与えた歴史的名著と知り、しみじみと感じ入った。この間に処分されていてもおかしくないほど、読書から離れてもいた。自分の芸術史観はこの一冊により開眼されたといっても過言ではない。特に序説の次の箇所である。ここは何度も読み返し、そのたびに美しく、的確な碩学の言葉に心酔してしまう。

 わたくしどもは、永遠なるものに憧れずにはいられない。それは、わたくしどもの日常心においては、あまり無いことであるが、日常心の底には、日常的でない何ものかが、深淵のようにわだかまっており、日常心がそれに行きあたるとき、日常性がどこかで綻びて、永遠の光が、きらりとさしてくる。そういう意味で、わたくしどもは、永遠なるものに連なっているわけだが、わたくしども自身は、けっして永遠ではない。わたくしどもが永遠でないことを自覚するとき、永遠なるものへの憧れは、いよいよ深まるであろう。(中略)

 ところで、永遠なるものへの憧れは、北極と南極のように、ふたつの極をもつ。そのひとつは「完成」であり、他のひとつは「無限」である。いま、これを藝術の世界について考えると、完成の極にむかうものは、それ以上どうしようもないところまで磨きあげられた高さをめざすのに対し、無限の極におもむくものは、どうなってゆくかわからない動きを含む。わたくしは、前者を「雅」、後者を「俗」とよぶことにしている。(初版 1953 年)

 こうして再び頁を開き、やはり唸らずにはいられない。この 200 頁を少し超えたほどの小冊子に、中国の文学、文化を吸収しながら、より日本的な雅が創出された文藝史の流れが確固とつづられるのだが、その洞察の鋭さは三歎に値するどころではない。二千年に及ぶ歴史と対峙し自ら確認、思考、知悉する厳しい姿そのものが、学者としての生き方と存在を顕示する。さらに驚くべきことは、寂寥の学問の道を歩みながら連歌や俳諧の切磋琢磨に努め、同時に学生への慈愛も忘れていなかったことである。機知に富み人間味に溢れる側面は、本書のみならず、文章の語り口調から情熱とともに伝わってくる。

 古文参考書から著名な文学博士とは存じていたが、中国、日本、欧米とどの分野の教養にも明るく、稀代の、まさに奇跡のような博覧強記で鳴る存在だったとは。本書を手に取り著者と出遭ったことが、自分にとり人生の大きな転機となった。

日本文学史

©akehonomurasaki