あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

能因本の謎

 『源氏物語』誕生後、その研究がこれほど盛んになる理由の根本には中世歌壇に認められたことがある。藤原俊成の言明「源氏見ざる歌読みは、遺恨の事なり」(『六百番歌合』冬上十三番「枯野」判詞)が後世に与えた影響はあまりにも大きかった。

 『源氏物語』は『枕草子』が存在したからこそ誕生できたにもかかわらず、後者が重視されなかった理由を自分なりに列挙したい。

  • 悲哀の美学に徹した『源氏物語』と明朗と悲哀の両面性を持つ『枕草子』で前者の属性が評価された。
  • 「あはれ・薄明・含蓄・長文・文語的・ことのは的・行動の連続性・複雑」の『源氏物語』に対して「をかし・鮮明・率直・短文・口語的・ことば的・行動の非連続性・単純」の『枕草子』であり、前者のことのは的な流麗さ、薄明さが中世和歌の在り方に合致した。
  • 文体に関して清少納言は当時すでに権威となっていた『古今和歌集』に対抗する散文体を創造し、紫式部はその散文体に対抗して自らの文体を創出した。前者が政治的理由を孕んでいた一方で、後者は芸術的要素のみを追求できる環境下にあった。
  • 鎌倉時代、『枕草子』の写本内容がすでに不可解だった。このため注釈など研究に後れを取る。
  • 源氏物語研究の初期の集大成である四辻善成著『河海抄』(一三六二~一三六八年成立か)において、光源氏・藤壺モデルとしての一条帝・中宮定子の可能性はきっぱり否定されているという。つまりこれは鎌倉から室町期にかけてすでに『枕草子』で清少納言が後世に遺そうとした中宮定子の面影など忘れられていた証明でもあり、『枕草子』の存在感は薄くなっていた。

 なぜ『枕草子』の写本は分かりにくかったのか。答えの一つには能因本の存在が挙げられそうだ。

 研究者によると能因本はあきらかに他の写本とは異なるという。意味の通らない不可解な箇所が多い。まるで、何かを隠そうとしているかのように漢字を開いたり、逆に当て字を施すなどする。理解困難に陥らせてそのまま書写させ本文改変を防ごうとした意図があったのではないかとの見方も生まれている。

 考えてみれば、世の中が可視化している現代からは想像もつかない懸念のあった当時であろう。たとえ書き遺していても、どこで誰に手を加えられ変わっていくかは全くおしはかれない。まして時の権力者藤原道長に対抗していた定子後宮の記録となればなおさらである。政治的性質を持った作品であったのだと今更ながら思い知る。

 清少納言は定子後宮の威光を遺す強い決意を抱き筆を尽くした。能因本には彼女の意図が必ずや鏤められているはずだ。分かりにくかったので研究が進まず忘れられていった過程は、遺したかった清少納言の思いに反して皮肉でもある。しかしながら、テクノロジーの恩恵を受けて語彙の統計が進むなど『枕草子』の謎解明が進めば、『枕草子』こそ評価されるべき時代になるかもしれない。

 『万葉集』もこれだけ広まったのは正岡子規の一声に加え、研究が進んだ背景もあり明治以降である。時代により文学作品の評価は大きく分かれるので、『源氏物語』『枕草子』が興味深い好例となるかもしれない。

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