あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

評論における敬体

 実務英語における3C(Clear/Correct/Concise=明解/正確/簡潔)を知って以来、文章はわかりやすく、正しく、短く記すべきであると認識してきた。よって当然、常体を使うわけだが、大岡信著『詩人・菅原道真―うつしの美学』に出会い、異なるアプローチも学びになるかもしれないと感じてはいた。3C信仰をそのまま抱きながら。

 この著作は評論には珍しく敬体で綴られており、大岡氏はあとがきで「文学評論や思想論文などに見る現代日本の文章が武張り難解になる傾向」を好まず、同時に「巷間人々が語る話し言葉そのものが、しまりのない、断片的で刹那的なものになる傾向にある」ことも好きではないと述べている。

……実をいえば、この本の序章を書き始めた時、私は「である」調で始めようとしてどうしても動きがとれず、思いきって「です、ます」で書き出した途端、堰きとめられていたものが一気に流れはじめるという経験をしました。
……もし「です、ます」で書くことをせずにいたら、この本はどんなに硬い本になっただろうかと思うと、何とも不思議な気がするほどです。(202頁)

 「かねがね文章における話し言葉の可能性について考えるところがあった」という氏は「考えるところ」を実践に移し見事に昇華させた。

 「堰きとめられていたものが一気に流れはじめる」。最近になりこれを体感してみたいと衝動に駆られている。見える風景がまったく異なるはずなので。

 蛇足。真っ白な画面が気持ちよいnote.comで過日、敬体の文章を試してみたが、止めた。今の時点で「つながる」ことにどうしても抵抗がある。ひとりで静かに書かせてもらえない。あくまでも試みであるので、hatenablog.comに留まる。シンプルに生きたいのに、どうしてあちこちにアカウントを開く必要があるのだろう。ウェブは、本アマゾン、情報ツイッター、執筆はてなで充分と再認識できた。ということで、ときどき敬体でも記すことになる。

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