あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

能因本の『枕草子』

 旧暦三月に吹く風は…、「雨風」と「花風」であれば、どちらが季に似合う情景と感じるだろう。四種類ある『枕草子』の写本において、現在一般的な三巻本では「雨風」、江戸時代から戦後ぐらいまで広く読まれていた能因本では「花風」である。

 島内裕子著『こころをよむ 批評文学としての 「枕草子」「徒然草」』は、『枕草子』と『徒然草』の美意識、価値観、人間観を現代的な視点から考察し批評文学として紹介する。ラジオ番組のテキストであり、番組の『枕草子』本文は能因本を底本として使用。そこに「花風」の記述があった。「この美しい言葉は、文学作品の中ではほとんど使われなかったようで、用例が少ない」と述べている。

風は、嵐。木枯。三月ばかりの夕暮に、緩く吹きたる花風、いと哀れなり。

 旧暦三月は今でいう四月。夕暮れ時、ほろほろと散り初めている桜の花びらを緩く甘い風がさらう。一見して「花」には華やかさが纏うので、「哀れなり」への心象としてつながるかは何となく微妙とも感じた。だが、桜を中宮定子として想像すると、まさしく「哀れ」である。

 何か今までにない桜の散り方をシネマとして観せてもらったような気がする。移ろいを眺めた『古今和歌集』の桜の姿と比してしまうからかもしれない。「散る桜」は描かない『枕草子』のはずだったのに。いや、実際に散る光景は描かれてはいないが、そのイメージは哀しさに包まれる。

 いずれにしても能因本の語の選択が美しい。僧侶で歌人の能因は清少納言の親族でもあるので、能因本は原本にもっとも近いのかもしれないとさえ想像してしまう。

 後半『徒然草』は未読だが、前半『枕草子』の放送六回分において、まず能因本の意義を考えさせられた。三巻本は戦後広まったに過ぎず、江戸時代から昭和三十年代までは『枕草子』といえば北村季吟が注釈を記した能因本の『春曙抄』(一六七四年)を指していたという。その証拠に蕪村と与謝野晶子の作品も残っている。

春風のつまかへしたり春曙抄(蕪村)

春曙抄に伊勢をかさねてかさ足らぬ枕はやがてくづれけるかな(与謝野晶子) 

 『枕草子』が『源氏物語』ほど読まれなかった理由には、読みにくさがあったという。素人の想像では、藤原俊成ら中世歌壇に重んじられなかったことから注釈などの研究が進まず、忘れられていったのではないか。

 北村季吟といえば近江出身で松尾芭蕉の師匠でもある。ここにもこんな因果関係があったとほくそ笑んだ。

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