あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

『枕草子』の散らない桜

 赤間恵都子氏の「『古今和歌集』と『枕草子』—「桜」の描写の比較から―」を読み、『枕草子』における桜の在り方を追った。以下、メモ。

 赤間氏はまず、『古今集』における春歌一三四首のほぼ三割にあたる桜の歌、四一首を列挙し、咲いた桜、移ろう桜、散る桜の歌群を確かめる。次に『枕草子』における二十七例の桜の語が現れる箇所を挙げ、そのうち植物の桜を指す用例十一例、残りの半数以上が桜襲の衣装を示す用例を示した。

 『枕草子』の日記段において、衣装描写は中関白家の栄華期に多く現れ、零落期には描かれなくなる。桜襲の衣装の数々は、定子を支えた家の栄華を演出する要素となり、宮廷に花開く桜は、栄華を極めた一門の象徴として咲き誇る中宮定子であった。「中関白家の栄華を描く『枕草子』においては、桜は決して移ろったり散ったりしてはいけなかったのである」。『枕草子』が描く桜は決して散らず、色褪せた姿を人前に曝すことも避けられた。ちなみに『源氏物語』の「桜」は用例六十六例の中、五十例までが植物の桜を描いているという。

 さらに「散り」「散る」の語の用例を『枕草子』から検索してみる試みもなされた。該当用例は全十三例。畳紙や手紙など紙類の散る用例が五例、雪が三例、水が一例、残りの四例が植物で、うち不特定の花々を指す例が二例、梅が一例、そして桜一例となる。唯一、散る桜の記された箇所は「小白川といふ所は…」にあり、以下。

さてその二十日あまりに、中納言(藤原義懐)、法師になりたまひにしこそあはれなりしか。など散りぬるも、なほ世の常なりや。

 この「散る桜」は、清少納言の宮仕え以前の章段で、かつて天皇の外戚の地位にあった藤原義懐の華やかな姿を描いた後に記される。その時、小白河院法華八講の中心にいた義懐には数日後に失墜する運命が待っていた。清少納言は「彼の運命に比べたら桜など散りぬるのはたいしたことはない」という言葉を述べている。「『枕草子』で桜が散ることに触れる唯一の用例が、一時の権力者の失脚に喩えた例であることは示唆的」と赤間氏は指摘。「『枕草子』が実際に散る桜を描かないのは、それが中関白家の失脚を連想させるものだったから、という推論を裏付ける根拠になる」とする。

 散る桜を描かない『枕草子』は移ろう桜を詠む『古今集』を軽んじているわけではなく、桜満開の清涼殿を描いた章段の後半に定子が『古今集』の暗誦テストを施し同集の文化的権威を積極的に証明している。つまり、『枕草子』は「『古今集』の価値を認めた上で、「散る桜」に対抗することによって、独自の世界を演出したと考えられる」。

  散る桜が死につながるイメージは近代以降に生まれた*1という。古今集の桜は移ろいゆく桜をそのまま翫賞しており、ここにもまた明治以降に作り上げられた概念があったのだと気づかされた。『万葉集』の近現代における位置付けと同様に、歴史の中で事象を俯瞰する眼が必要である。

 この論文は2016年に発表されたもので、今後、夏と秋の景物でも同様に『古今集』との比較を行ってゆくという。四季の景物がすべて出そろえば出版も期待でき、待ち遠しい限りである。

 ひとつ残った疑問。『古今集』と『枕草子』の桜比較は、『源氏物語』も含め多分に過去にも行われていたと推察する。赤間氏の考察方法は何が違うのだろうか。一つ一つ丁寧に洗いなおしている素材の扱い方が新しいのであれば、この手法を学びたい。いずれにしても仰ぐつもりでいる。

*1:小川和佑『桜の文化史』を挙げ、「桜」が死のイメージと結びつくのは明治時代以降であり、昭和初期の戦時に民意高揚のために利用されたと言及。

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