あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

ツイッター文学

 フォローしている国文学者さんが、読み手の存在するツイートは「ツイッター文学」というくくりの文学になってゆくといった内容のツイートをされていた。つぶやき文学。バズるツイートというよりも、ある一定の読者を満足させるツイートが新時代の新文学として認識されてゆくのだという。特に小説とか評論とかの形態には所属せず、電脳空間に創出された新しい提示スタイルのことを指すのだろう。情報革命から生まれた潮流だ。

 鎌倉時代の『とはずがたり』は読者が存在したから遺ったのであり、ほとんどの女房たちの日記が遺らなかった理由はおもしろくなかったからとのことである。主家の記録である公的日記でも私情をさしはさんだ日記には人気が集まり、愛読者がいたからこそ遺ったという。別に意図はしていなかったのだろうけれど、共感する「私情」が時空を越えさせた。

 しかしながら現在と中古では、情報量が天文学的な数字で異なる。私情を曝して盛ってもとりわけ特別なことにはならない。ならば、これだけ情報に埋もれている地球に遺る言葉って、何なの? と問う。地球が滅びていないことを前提として。

 たとえ今は読まれても、つぶやき文学の多くは記憶の彼方に消えてゆきそうである。だからこそ電脳空間に検索をかけて感動を取り戻すのだろう。でも、それゆえに人の記憶の中では儚い存在に思える。

 後世に何かを遺す人々は、こんな思考に微塵も興味を抱いていないだろうな…。でもどのような言葉が遺り、どのような言葉が消えるのか。考えずにはいられない。

©akehonomurasaki