あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

アニミズム

 白熊先生の「新型コロナウイルスと、呪術で戦っていませんでしたか」を読み、確かに手洗いは穢れを除くお清めのような行為だったと納得した。同様の衛生観念は、欧米にはなさそうだ。

 日本で育てば、みな幼少期からアニミズム*1に囲まれている。それで、ときどき「古書」という存在にも精霊のようなものを感じ、畏れてしまうことがある。本の妖精さんなら、いいのだけれど。

 このアニミズム体験は、『永福門院(佐々木治綱著)』より生じた。

 永福門院には家集がなく、まとまったものとしては「永福門院百番御自歌合」があるのみという。中世歌合の判詞を洞察した『日本の文学論』で著者は、上記佐々木本を用いて永福門院の叙景歌を鑑賞、研究し、非常にありがたかったと記していた。ならば、私も…とさっそく注文する。

 心待ちにした郵送の包みには、曇った十円硬貨の色に褪色した一冊、昭和十八年、生活社発行の『永福門院』が入っていた。まずこの褐色の経年に威厳を感じた。厚いわら紙の表紙はざらついた感じで、手に取り、畏怖に包まれる。

 第二次世界大戦をも潜り抜けてきた一冊だ。どうやって戦時下を過ごしたのだろう。どのような人が読んでいたのか。その人はどこに、誰と住んでいたのか。家族は、友人は…などと想像し始めると、さまざまな場面が浮かんでは消え目がくらむ。本に霊魂が宿っているように思え、昼間にもかかわらず怖くなってきた。急いでジップロックに入れ、力を込めて封。そして、目の付かないところにしまい込んだ。

 世の中にこの版一冊しか残っていないという貴重な永福門院本なのだが、まだ手にして読もうという気持ちにはなれない。同書には、さまざまな人の声や気持ちが宿っており、まだ精霊たちの存在を受け入れる準備ができていない。

 アニミズムの記事を読み、永福門院の本のことを思い出した。

日本の文学論

*1:動植物のみならず無生物にもそれ自身の霊魂(アニマ)が宿っており、諸現象はその働きによるとする世界観。

©akehonomurasaki