あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

大和言葉と唐言葉、今様言葉

 入社したころの話、ふたたび。指導者は万葉仮名に詳しく、唐言葉が好き。一首のなかで一語、あるいは二語、有効な漢語を使用することを薦めていた。確かに、三十一音において、漢語の使用はメリハリを生む。印象が濃くなり、イメージがきりりと引き締まるのである。よって始めたばかりの頃は、漢語で凝集する歌ばかり作っていた…と振り返る。

 でも、和歌史を紐解くうちに大和言葉で歌を詠む風体に惹かれ、故意的な唐言葉の使用を疎むようになる。加えて、その後に出会った連歌の影響が決定的だった。言いたいことをすんなりと言えるのは漢語なのだが、感覚で受け入れようとするとどうしても和語のほうが自分のなかではしっくりくる。今もまだ、ここで揺れ動いている…と思う。

 今様言葉はコピーライト的な言葉。何となく雰囲気で使用し、今風の味が生まれる。月詠の締め切りに間に合わないときによく使っていた。たとえば村上春樹の文庫本を開いてイメージや言葉を渉猟するようなこと。浅はか。ところが、この種類の歌は高く評価された。結社内では珍しくて目立ち、要するに、何となく新しく、現代風だったからだと思う。でも、もちろん自分の気持ちではなかった。ただ、小洒落たコピーライト風に表層の雰囲気で書いていただけ。それこそ、共感を得られそうなネタを詠み込んで。面白いかもしれないが、歌の本来あるべき姿と正反対のベクトルであり、魂のこもった歌を前にしてよく落ち込んだ。そして、欠詠。多忙なこともあったけれど、歌と真摯に向き合うことができず、こんなことばかりしていたな、と。これが波動のように何度もあった。まあ、仕事と子育てが忙しくて歌の時間の取れないことが一番の理由ではあったけれど。その間、開封されない結社誌が何冊積まれていたことだろう。表紙のデザインを知らない年すらあったと思う。

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