あけほのむらさき

花も鳥もこころの旅にいく昔いくうつりして春はあけほの

連歌もどき

 構えて歌を詠むのではなく、気軽にさりげなく詠めたらいい。そのような状態は往々にして遊びの心理から生まれることが多いと思う。

 連歌もどきの遊びから、ふっと秀歌が生まれたときは感心した。連歌は長句(575)と短句(77)の交互のやりとりだが、このもどきではそのまま三十一文字で応答を繰り返し、ストーリー性のある歌を紡いだ。

 『宗祇』から、連歌の在り方について書き留める。

言語の流れ自身の美しさこそ、連歌の本性(79頁)

…知識を伴うときさらに感動が深められるような種類の芸術も存在することは事実で、交響楽やピアノ曲は、まさにそういった性質の芸術なのである。これは、連歌についても同じことだといえよう。(80頁)

…適当に「地」の句と「文」の句を配列することは、連歌にとって重要な心得であり、これを術語で「地文を置く」という。(118頁)

…連歌作品は、大小・強弱・緩急・明暗など、さまざまな性質の返歌が錯綜しながら、しかも全体として変化そのものが調和であるような「姿なき秩序」の感性を理想とする。(119頁)

…どうなってゆくかわからない偶然性に媒介された各句のダイナミックな総和が連歌における全体なのであって、設計図に合わせた固定的な全体とは性質がまるきり違う。(120頁)

連歌は、もともと特性のない表現を良しとする。(143頁)

連歌は、複数の連衆によって「座」を構成するのが原則である。その際、連衆の間に共同的な考えかた・感じかたが無ければ、連歌は快適に進行しない。連歌の「座」は、討論の場でもなければ主張の場でもなく、優雅な雰囲気を愉しむための集いにほかならないのだから、渋滞や混乱を嫌う。そのため、古来「雅」の世界で共同的に確認されている「いちばんそれらしい在りかた」に従って句材なり表現なりを選ぶのである。(144頁)

 長句と短句の織り成す繊細な反物のような連歌だが、このかすかな機微を取り入れる表現方法を歌にも取り入れてみたいと常に思っている。あらためて連歌の本質に触れ、確かめたことは、「誰もが知る平淡な言葉をつなぎ、鏤め、歌として形をなす詠み方を試みる」ということ。これが平淡美を求めるということなのだろう。戯れながら、遊びながら、気張らない。言葉のイメージを追い、うまく三十一文字に置くことができると、うれしい。

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